日本の敗戦を個人のトラウマにすり替える

『ゴジラ-1.0』は「官僚」と「民間」というこの問題について、かなり複雑な手続きを踏んでいる。

まず主人公の敷島(神木隆之介)は暴走した国家と官僚的組織(戦時の軍隊)の犠牲者である。彼は「特攻」という、国家による非人道的な命令の犠牲者なのだ。ところが、この映画はそれを、大戸島でゴジラに攻撃をできず、同朋軍人を見殺しにしてしまったことに対する敷島の個人的な悔恨へとすり替える。

北米プレミアの様子。山崎貴監督(左)と神木隆之介(右)
北米プレミアの様子。山崎貴監督(左)と神木隆之介(右)

特攻から逃げたこと(これは人道の観点からは正当なはずである)が、ゴジラを攻撃できなかったことにすり替えられ、その結果、敗戦=日本の去勢という大状況が敷島の個人的トラウマもしくは去勢にすり替えられる。

『シン・ゴジラ』でアメリカ軍が積極的に介入していたのとは違い、国際政治(アメリカのプレゼンス)は冷戦の始まりを口実に消し去られる。そのような状況から敷島が抜け出す近道はもちろん、特攻を再演して自爆死することである。それは、『ゴジラ-1.0』を敷島個人の悪夢から、再び日本戦中・戦後史へと引き戻しただろう。戦時の官僚制の暴走、そして敗戦という歴史へと。

主人公が「民間ヒーロー」だったワケ

だが、それは世界市場をにらむエンターテインメント大作として陰惨すぎるだけではなく、「戦えなかったぼく」を「戦える/戦えたぼく」へと修正したいという欲望、つまり日本の再軍備化(改憲)への欲望をあまりにも赤裸々にさらけ出してしまうことになるだろう。また、当たり前だが、この「自爆テロ」の時代に特攻を美化するなど、できようはずもない。

それに解決をもたらすのが、(少々ご都合主義的にも思える結末に加えて)「民間」の強調である。『ゴジラ-1.0』の英雄たちは国家の英雄ではあり得ない。それは、自主的に集まった文民の英雄たちでなければならない。

このことは、12月刊行予定の拙著『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)および11月刊行予定の拙著『はたらく物語 マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』(笠間書院)での議論に照らし合わせてみるとより理解しやすい。

前者の『正義はどこへ行くのか』で私は、日本のヒーローものを「官僚的な組織の正義」と「それを疑う民間組織」の対立で読み解いた。『シン・ゴジラ』の庵野秀明は基本的に官僚的な組織の有能性を志向しつつ、その不可能性にむしばまれてきた作家である。また後者の『はたらく物語』では、『僕のヒーローアカデミア』や『株式会社マジルミエ』など、近年顕著な「企業ヒーローもの」を、「市場」が正義となった新自由主義状況の文脈で読み解いた。