「世界王者になる」と確信した政悟の才能
「父がボクシングをしている記憶はほとんどありません。でも、ボクシングにはじょじょに興味がわいて、お年玉を貯めて小5のときにグローブを買ったんですよ」(ユーリ阿久井)
ウルフ時光が引退した数年後。阿久井は、当時住んでいた公営団地の広場で、仕事から帰ってきた父・阿久井一彦さんとスパーリングごっこやミット打ちを始める。中学2年で守安ジムに入会してからはボクシングがさらに楽しくなり、阿久井は毎日自転車に乗って守安会長のもとへ通い始めた。
ただ、ジムは2000年代半ば、所属するプロボクサーは5名以下となり、会員も減っていった。主力選手が引退し、「毎回ほとんど赤字だった」という興行「桃太郎ファイト」も2006年に中止された。ジムの後援会も解散。トレーナーもおらず、歳を重ねた守安会長も以前のようにミットを機敏に受けることが難しくなり、練習生同士で持ち合うようになっていた。
阿久井が守安会長のもとを訪れたのは、ジムがそんな落ち目の時期だった。
1年ほどジムで練習したころ、阿久井は15歳以下を対象とした大会に腕試しで出場すると、いきなり優勝をおさめる(決勝の相手は現プロボクシング日本王者の堤聖也)。高校2年時の国体では前年の選抜大会優勝者に勝利するなど、めきめきと実力を上げていた。
阿久井の素質は抜群だった。高校時代の阿久井について、当時別の大手ジムに所属し、何人もの王者を指導してきた西尾誠トレーナーは、「スパーリングを初めて見たとき、将来世界チャンピオンになると確信した」という。
阿久井の素質を聞きつけ、首都圏の大学のボクシング部関係者から多くのスカウトがかかった。だが、阿久井はすべて断って倉敷の守安ジムに残り、地元の大学に通いながらプロボクサーになることを選んだ。
デビュー後、つまずくことはあっても闘争心は途絶えず、むしろ燃えあがった。プロ1年目の2014年の新人王戦では敗者扱いの引き分けとなるが、「もっと強くなるため、何か変えたいと思った」と、自ら志願してフィジカルトレーニングを受けるようになり、ジムOBのトレーナーにミット持ちを依頼するようになった。
その後二度の敗戦を経験するが、2019年にはついに日本王者となる。日本タイトル戴冠は守安ジム、また岡山県下のジムにとっても守安会長以来38年ぶり、2人目の戴冠だった。