淀君に嫉妬
秀吉とおねの二人は尾張弁で喋り合うので、常に怒鳴り合っているような感じで、周囲には夫婦喧嘩をしているように聞こえたらしい。ひとたび本物の夫婦喧嘩になれば、それは凄まじい怒鳴り合いとなったという。
夫の秀吉は、家康とは反対に、身分の高い女性に関心を抱いていた。出世するにつれ、加賀の局(利家の三女)、三の丸(信長の五女)、松の丸(京極高吉の長女)、姫路の局(信長の姪)、三条の方(蒲生氏郷の妹)、淀殿(浅井長政の長女)など多くの側室をもつようになった。
北政所(おね)にももちろん嫉妬心もあって、若い頃は信長に愚痴をぶつけたこともあったようだ。そんな北政所に、信長はこんな手紙を送っている。
「ハゲネズミ(秀吉)には、あなたのようないい女房が二度と現れることはないから、奥方らしく、落ち着いてすごすように」
ただ、この夫婦には子供がいなかった。
従って、北政所は秀吉の子供を産んだ淀殿には嫉妬したのではないだろうか。最初、秀吉は浅井長政の長女茶々を淀城に入れていたが(それで彼女は淀君とか淀殿と呼ばれるようになった)、淀殿が男子を連れて大坂城に移ってくると、北政所は大坂城を出て京都に移り、高台院に入ってしまった。
彼女にしてみれば、淀殿や秀頼が中心となる豊臣家の行く末にはあまり関心がなかったのかもしれない。豊臣家の天下保持よりも淀君に対する反感のほうが勝っていたのではないかと思われる。