豆味噌が大好きな家康

戦国時代でも「味噌が切れれば、米なきよりくたびれるものなり」と言われ、過酷な戦場の栄養源として米よりも重視される風があった。その味噌をもっとも上手に利用した武将は誰かと言えば、徳川家康だと思う。

「16人の子だくさん」で「健康オタク」。実は粗食だった徳川家康を支えた“麦飯と焼き味噌”_1
徳川家康(『家康公肖像』,[江戸時代] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション )
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岡崎城から西へ8丁(約870m)行ったところに位置する八丁村(現八帖町)で、八丁味噌という名物味噌が生まれた。八丁味噌という名称は江戸時代になってからだが、今もなお〝カクキュー〞と〝まるや〞という2つの老舗が頑張っている。

ちなみに、カクキューを経営する早川家の始祖・新六郎勝久は、もともと今川家に仕える武将だったが、桶狭間で義元が敗死したことをきっかけに、武士をやめ岡崎に落ち延び、味噌造りを始めたという。

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「カクキュー」とは愛知県岡崎市八丁町に本社がある「合資会社八丁味噌」の屋号(著者撮影)

家康の出身地、三河は豆味噌文化圏である。豆味噌は大豆しか使わないため、たんぱく質含有量が味噌のなかで最も多い。朝鮮半島から高麗人がもたらしたと伝えられる豆味噌の製造法はユニークで、『聞き書 愛知の食事』(農山漁村文化協会刊行)によると、松平家がかつて拠点にしていた安城(あんじょう)の家庭では、次のような製法で造られていた。