小早川秀秋は即座に裏切った?

では「問鉄砲」が原因でないとしたら、小早川秀秋はなぜ西軍を裏切ったのか。

白峰氏は、そもそも小早川秀秋は裏切りを逡巡しておらず、開戦直後に寝返ったと主張している。

白峰氏は主張の根拠となる一次史料として、(慶長五年)九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(「堀文書」)を挙げる。

松平家乗は家康の家臣で(一門衆)、関ヶ原合戦当時は三河国の吉田城の守備を担当していた。石川康通・彦坂元正は、これまた家康の家臣で、十七日時点で佐和山城を守っていた。

要するに、前線に近い石川と彦坂が関ヶ原合戦の結果を後方の松平家乗に伝達したのである。

同史料には、「十五日の巳の刻(午前十時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。

東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子の四人が(家康に)御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した」という記述がある。

これに従えば、開戦まもなく小早川秀秋らは裏切ったことになる。

その後、白峰氏は根拠となる史料を追加して、主張を補強している。

(慶長五年九月十七日)吉川広家自筆書状案(『大日本古文書吉川家文書之二』九一三号)には「(東軍が西軍を)即時に乗り崩され、悉く討ち果たされ候」「内府様(家康)直に山中へは押し寄せられ合戦に及ばれ、即時に討ち果たされ候」とあり、このことから、やはり開戦直後に東軍の勝利が決まったと説く。

「山中」とは、従来戦場と考えられていた平坦な「関ヶ原」の西に位置する山地である。白峰氏は「山中エリアに布陣していた石田方の主力諸将は、一方的に家康方の軍勢に攻め込まれて『即時』に敗北したのが事実であった。

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従来の通説では、合戦当日(九月十五日)の午前中は一進一退の攻防であり石田方の諸将は善戦したとされてきたが、このように石田方の主力諸将は関ヶ原に打って出て家康方の軍勢と華々しく戦ったわけではなかった」と論じている(『関ヶ原大乱、本当の勝者』)。

加えて、(慶長五年)九月二十日付近衛信尹宛近衛前久書状(「陽明文庫」)でも、前久は関ヶ原合戦について、東軍が「即時」に切り立てて「大利(大勝利)」を得たと伝えている。

東軍関係者以外の同時代人が伝える戦況情報という点で軽視できない。同書状では小早川秀秋の裏切りにも言及しているが、秀秋の裏切りによって大谷吉継が討たれたとのみ記しており、秀秋の逡巡や「問鉄砲」、吉継の善戦については語っていない。

通説が語る関ヶ原合戦の展開は後世の創作である、と白峰氏は結論づけている。