小早川秀秋の不穏な動きと西軍の対応

白峰氏の議論に刺激され、在野の歴史研究者も関ヶ原論争に参戦した。

その一人、高橋陽介氏は著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を二〇一五年に自費出版し、さらに乃至政彦氏と共著で二〇一八年に河出書房新社から『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』を発表した(二〇二一年に文庫化)。

高橋氏の主張は多岐にわたり、白峰説への批判も含まれている。しかし白峰氏の新説を支持している部分も少なくない。白峰・高橋両説の共通点として、小早川秀秋は関ヶ原合戦開戦前から東軍への寝返りを決断しており、事実上、東軍として活動していたという主張が挙げられる。

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白峰氏は「秀秋は伏見落城後、石田三成が伊勢の安濃津城攻めに行くように指図したにもかかわらず、これに従わず、関地蔵から引き返して近江の高宮に陣を取り、このため石田三成などから『二心あり』と疑われるようになった。

そして、佐和山城にいた大谷吉継が秀秋を欺いて招き捕らえようとしたり、平塚為広と戸田重政を使者として高宮に遣わし秀秋に直接対面して討とうとした。

その後、秀秋は近江の柏原に陣を移したところ、石田三成などが謀議して秀秋の陣を攻めようとしたので、稲葉正成は諸士と相談して兵力を率いて美濃国に行き、九月十四日に松尾山の新城に入り、その城主である伊藤盛正を排除した」(「関ヶ原の戦いに関する再検討」『別府大学大学院紀要』)と述べている。

この白峰氏の指摘が正しければ、西軍の武将を実力で排除している以上、関ヶ原合戦前日の時点で、小早川秀秋は明確に東軍に加担していたことになる。

高橋氏も白峰説を踏襲し、「松尾山には伊藤盛正(大柿三万四〇〇〇石の領主)が入って普請をしていたが、秀秋率いる部隊はそれを追い出して、松尾山を占拠した。これは西軍に対する明確な敵対行為である。

したがって、大柿の三成らが、秀秋の寝返りを知ったのは、九月一五日の昼ではなく、一四日の夜であるということになる」と語っている。

さらに白峰・高橋両氏は、石田三成らが大垣城から関ヶ原に移動したのは、徳川家康に誘い出されたからではなく、小早川秀秋の寝返りを察知し、関ヶ原にいる大谷吉継を救援するためだった、と論じている。

すなわち白峰氏は、前掲の吉川広家自筆書状案に「小早川秀秋は逆意が早くもはっきりする状況になったので、大柿衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元(原文ママ)なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)」と書かれていることに注目している(『新解釈関ヶ原合戦の真実』)。

高橋氏も吉川広家自筆書状案や『慶長年中卜斎記』の記述を根拠に、「小早川秀秋の寝返りを知った三成は、秀家・行長・惟新〔島津義弘〕の諸隊を率いて、秀秋を討つべく、雨の降るなか、山中方面へ向かった」と叙述している。