白峰旬氏らの新説の衝撃!「問鉄砲」はあったのか
先に示した関ヶ原合戦の通説的叙述は、『日本戦史関原役』『近世日本国民史家康時代上巻』などに拠った。これらの文献が主な典拠としたのは、『関原軍記大成』に代表される江戸時代の関ヶ原軍記である。
ところが近年、白峰旬氏が従来の関ヶ原合戦像を根底から覆す新説を発表した。
白峰氏は精力的に関ヶ原関係の論文・書籍を発表しているが、氏の関ヶ原論で最も重要なものは、「問鉄砲」の否定であろう。
白峰氏は史料を博捜し、関ヶ原合戦直後の史料や江戸時代前期に成立した編纂物には「問鉄砲」の記述がないことを明らかにした。
白峰氏によれば、「問鉄砲」の初出は元禄元年(一六八八)成立の『黒田家譜』だという。
白峰氏の新説提唱後、学界で研究が進展し、現在確認されている「問鉄砲」の初出史料は植木悦が著した軍記物『慶長軍記』である。同書は寛文三年(一六六三)に成立しているので、『黒田家譜』よりは二十年以上早いが、それでも関ヶ原合戦から半世紀以上を経ている。一連の研究により、「問鉄砲」が後世の創作であることはほぼ確定したと言える。
従来、「問鉄砲」という家康の無謀と紙一重の大胆な策が勝因と考えられてきた。
たとえば歴史学者の笠谷和比古氏は「東軍優勢という当面の戦局に即してのみ見るならば、小早川に挑発鉄砲を撃ちかけるというのは、常軌を逸した行為と言わざるをえないだろう。
すなわち家康が、そのようなリスクを犯してもなお小早川隊に向けて挑発の鉄砲射撃を敢行したということは、それを実行しなければ、それ以上のリスクが到来するという状況認識を抜きにしては理解できないということである」と論じている(『戦争の日本史17関ヶ原合戦と大坂の陣』)。
だが「問鉄砲」が史実でないとすると、神がかり的な家康の軍事的判断によって、当日午前中の一進一退の攻防から一変して東軍の劇的な勝利に終わったという関ヶ原合戦像はその前提を失い、「家康神話」は崩壊する。
白峰説が歴史学界にもたらした衝撃の大きさは容易に理解されよう。