「機織部」が転じて「服部」に
服部吉右衛門亜樹さんの先祖は前編でも触れたとおり、天正6(1578)年に起こった第一次天正伊賀の乱で、三河にいる服部半蔵の父を当主とする服部一族の元へと逃げている。それとは別に、服部吉右衛門亜樹さん一族の本家の当主とその嫡男も、この戦いで行方不明となっていたそうだ。
「周囲はみな、死んだものと思っており、当時の過去帳(先祖の情報が書かれた書物)をひも解いても『信長により死す』と書かれている。
しかし、よく見ると小さく『生き延びて玉滝村(三重県阿山郡にあった村)の玉滝寺に匿われた』という記述があったのです。本家当主とその嫡男はその土地でとてもよくしてもらい、菓子作りの手解きを受けたため、代々、菓子司(かしつかさ。和菓子屋)をするようになりました。
そして、匿ってもらった地名が『深川』だったので、その恩を感じて屋号を『深川屋』としたと伝わっています」(服部吉右衛門亜樹さん・以下同)
ただし、「深川屋 陸奥大掾」の銘菓「関の戸」を作った初代、服部伊予保重の正式な活躍年代はわかっていない。現在、深川屋を営む服部一族に関する現存する最古の文献に「財産譲状』があり、それによると「寛永19(1642)年に服部伊予保重一族の×代目から、分家の〇代目へ財産を譲った」とある。
その伊予保重から数えて、服部吉右衛門亜樹さんが十四代目にあたるのだ。
だが、服部家自体のルーツをたどると紀元前200年にまでさかのぼるという。「あくまで口伝ですが……」と前置きをして服部さんが教えてくれた。
「三重県に多い服部姓のルーツは2種類に分かれていて、ともに大陸から渡来した機織機で反物を織る『機織部(はたおりべ)』が祖。うち1つは紀元前にやってきた、『漢織(あやはとり)』、もう1つはその300年~400年後、三国志時代の呉から来たため『呉織(くれはとり)』と呼ばれた一族なんです。
音が似ているし、服を織ることから『機織部』は『服部』と変わったというわけです」