三方ヶ原とはどんな土地?
徳川家康75年の生涯において“最大の危機”とされるのが徳川軍と武田軍が激突した「三方ヶ原の戦い」だ。1573年(元亀3年)12月におこったこの戦いは、武田信玄率いる2万5000とも3万とも言われる軍勢を、徳川勢8000と織田信長軍から派遣された援軍3000で迎え討ち、徳川軍の惨敗に終わったことは有名だ。
当時の家康は31歳。現在の静岡県浜松市にある浜松城を拠点とし、織田信長と同盟を結んでいた。そこへ、上洛するために甲府を出陣し、徳川方の城や砦を次々と落とし西上していた武田軍が浜松城に迫ってきた。
籠城を勧める部下たちの反対を押し切り、家康は浜松城から討って出たところ、当時最強と言われた武田軍に完膚なきまでに叩きのめされ、部下に身代わりになってもらいながら命からがら浜松城まで逃げ帰ったのだ。
両軍がぶつかった合戦場は、浜松城の北西に広がる三方原台地と呼ばれる場所だ。
「三方原台地は“暴れ天龍”とも呼ばれていた天竜川の河口にできた扇状地が地殻変動などで隆起したあと、さらにそこを長年に渡って天竜川が削り取ることによって残った洪積台地です。
東西約10キロ、南北約15キロに広がり、標高は最も高いところで100メートルを超えます。台地上には河川がなく、土地も痩せていたため農地には向かず、明治時代になるまでは藪が茂り、狐や狸ばかりが住むような荒れた土地だったそうです」(地元の郷土研究家)
明治に入ると治水事業が進み、畑が広がるようになり、三方原茶園やじゃがいもが全国に知られるようになったという。現在は宅地や商業地域が広がり、航空自衛隊浜松基地も位置している。