あの清原がブーマーにあやかって作られた異名
また、ブーマーの来日直後、ちょうど甲子園でPL学園の清原和博が旋風を起こしており、メディアは清原のことをブーマーにあやかって「キヨマー」と呼んだ。現在とは違い、パ・リーグの選手がプレーする姿を映像で見ることなどほとんどなかった時代だ。にもかかわらず甲子園のスターに自身の名前をもじった相性がつけられるほど、ブーマーの存在感は飛び抜けていた。
ブーマーは待遇のよかったメジャーやセ・リーグの誘いを断って日本球界に10年間在籍し、昭和後期から平成初期にかけ、パ・リーグを支え続けた。関西弁を操る通訳のロベルト・バルボン氏との軽妙なやり取りや、CM出演、積極的なファンサービス、サインに必ずカタカナで「ブーマー」と書き記すなど、プレー以外でも多くのファンから愛された選手でもある。
日本野球のレベルが向上し、昔ほど“助っ人外国人”が猛威を振るうことは少なくなった。冒頭にあるセデーニョが「ブーマーの再来」と話題となっているが、残した数字だけを見るとまだまだ到底及ばない。本当の意味で「再来」と呼べるかは、今後の活躍次第だ。
昭和、平成を経て、時代は令和に突入している。そんな中、40年前に日本にやってきた助っ人外国人の名前が今なお語り継がれていること自体が、ブーマーがバファローズ史上最高の“レジェンド助っ人”だった証だろう。
文/花田雪