締切の効用
尾崎 物語に様々な登場人物が出てきて、死んでいく。でも枚数やペースは乱れない。なぜぶれないんでしょうか。
北方 重要な人物と袂を分かつとか、ある人物が死ぬときは、様々な思いがある。だけど締切が皮膚感覚であって、これ以上遅れると駄目だと体内時計が言ってくる。すると直前に百枚、百五十枚を書けている。
尾崎 手書きですよね。打ち込むより時間はかかりますか?
北方 分からない。ただ打ち込みでエッセイや手紙は書けるけど、小説は金縛りかと思うぐらい指が動かない。小説の言葉は全然違う。万年筆のキャップを外して、尻に差して止まった瞬間に言葉が出てくる。不思議だね。
尾崎 自分はiPhoneでずっと書いています。締切を過ぎ、まずいとなってからは一緒ですが、そこまで一気に出来たりはしないですね。
北方 書いてて寝ちゃったりすることはあるよ。夢の中で続きを書いている。起きて書いたはずと思うけどないんだ。
尾崎 内容は覚えていないんですか?
北方 ない。満足している感覚だけがある。夢から引き出したいくらい。
尾崎 たしかに、メロディーを作った夢を見ることがあります。これは多分夢だなと分かっている。たまに覚えていられることもあるんですが、夢の中でいいと思っているだけで、実際には全然大したメロディーじゃないんです。
北方 同じだね。締切を落としたことはある?
尾崎 あります。
北方 駄作でも何でもいいから締切に間に合わせるんだね。間に合わせたものが実力だから。俺は書き下ろしでも自分で決めた締切を絶対に守ったよ。
尾崎 難しいですよね、それを守るというのは。
北方 あまりに繊細に書いていると難しいよ。書くというのは野蛮なことだから。何でも書く気持ちで締切に間に合わせていると、その野蛮さが言葉を出してくる。もう駄目だとか考えたりしないか?
尾崎 そうですね。実力もないのに、よく思われたい気持ちだけはあるので。
北方 傑作を書こうと思ったら駄目なんだ。思って書けるのなら誰でも傑作を書けてしまう。傑作は無数の駄作から生まれてくるくらいの気持ちでいい。
尾崎 『チンギス紀』を最後まで書き終えたとき、感慨はありましたか?
北方 一時間か二時間ぐらい、いい作品を書いたかもしれないと思った。
尾崎 書き終わってすぐにですか?
北方 うん。書き終わった原稿を眺めて、結構いい作品を書いたなと。だけど見ているうちに、何だこの文章はと。そう思い始めたら、何となくこれは全然駄目かもしれないと(笑)。
尾崎 直後の一、二時間だけいいなと思って、少ししたら……。
北方 終わったときの解放感と陶酔感だな。それが消えて自己否定になる。
尾崎 それはどれくらい続きますか。
北方 何日も続くけど、ゲラになった段階で諦念が働いて、客観的に読める。そこそこ頑張ったんじゃないかなと(笑)。
尾崎 最終巻だけでなく、一巻ごとにそういう感覚があるんでしょうか。
北方 一巻ずつそういうことがあるよ。
登場人物と小説の広さ
北方 チンギスにとって特別な存在は沢山いる。俺が人生に求めたものを敷衍して人を書いているから。ボオルチュは『元朝秘史』では武将だけど、俺はチンギスと一緒に少年のときに砂漠を越えさせた。ボオルチュにはずっとそばにいてほしかった。書きあぐねたとき、あぐねた部分を彼がいろいろしてくれたね。
尾崎 そういうことは『チンギス紀』以外にもありましたか?
北方 『三国志』では諸葛亮だった。
尾崎 それは一巻から決まっているわけではないですよね?
北方 全てのことが一巻から決まってないんだ。設計図を書くと俺はいいものが書けない。今のようにやっていると、人がちゃんと立ち上がってくる。例えば意外な生き方をしたのはタルグダイ。
尾崎 妻のラシャーンは最後まで生きていましたね。
北方 ラシャーンが太っていたのはタルグダイがいたからで、彼が死んでやせていく。タルグダイを食べ続けてたようなもので、深い愛憎だったんだね。
尾崎 個人的には五十騎で動いている玄翁が好きです。
北方 玄翁が好きなの? 玄翁は強いよ。
尾崎 強い人物と、そうでない人物を書くときの意識の差はあるんでしょうか。
北方 ないというか、むしろ弱い人物でも、勇気を出す瞬間なんてあるわけじゃない? そういうときの魅力もあるでしょう。
尾崎 でも物語としては、強いキャラクターがいないと成り立たないですよね。
北方 確かに敵対する人物が強くて魅力的なほど、主人公の魅力も出てくる。小説の基本的な技術として。ジャラールッディーンは、チンギスが移動しているときにテムル・メリクの笛を聞いて邂逅するんだけど、彼は変なおじさんが来たと思う。登場人物は誰に会ったか分かってないけど、読者には分かっている。
尾崎 そこを見せてもらえるというのが、読むことの豊かさですよね。
北方 そういう人間模様を書くのが小説ともいえる。長いものだし人間模様がなかったら単に戦っている小説になってしまう。ケレイト王国のトオリル・カンの息子は情けないけど、彼が駄目だからジャカ・ガンボとか周りがしっかりしてくる。あと俺の理想としてはトクトアがいるね。メルキトの長だったけど、森に棲家をつくり、狼と友達になって暮らす。
尾崎 別荘みたいな感じですよね、感覚としては。
北方 そうかもしれない。俺も海の別荘に行ったら誰にも会わないから。自分で料理を作って食って、うまいなと思ったりしているし。
尾崎 海と森との違いはあるけれど、近い感じがしますね。
北方 深刻じゃないけど、自分を思い返すような時間だと思う。
尾崎 トクトアのもとにはマルガーシも行きましたね。
北方 ジャムカは実在だけど、息子のマルガーシは俺がつくった人物で、徐々に存在感を持ってくる。彼は駄目になる可能性もあったかもしれない。でもそうはならなかった。それはトクトアのところに行ったからだよ。
尾崎 最終巻でマルガーシが怪我をして回復するのを待っているときに、女性が世話をしてくれる場面もありました。
北方 最後は国を賭けてとかじゃないんだよ。チンギスもマルガーシも大変なことになるけど、自分の思いだけを懸けて戦うというところに凝縮しなきゃ駄目で、それが逆に広さにつながる。
尾崎 そのぶつかりあう感覚が、すごくいいと思いました。
北方 俺、学生のときに一番前で機動隊にただぶつかっていたからさ。そういうものが体感的には生きている。
尾崎 実際そういうことなんでしょうね。ちなみに、映画は小説に影響を与えたりしますか?
北方 影響を与えられたことはない気がする。好きなだけで。映画を見ている間はあまり考えないし。
尾崎 スイッチをオフにできるという感覚ですか?
北方 オフなのか、違うスイッチをオンにしているのか……。尾崎君はある?
尾崎 あると思っていたんですが、北方さんの話を聞いていたら、ないのかもしれないと思い始めました。
北方 映画も音楽も違う表現物だと思う。クリープハイプを聴いて、尾崎世界観みたいな小説になるわけじゃないしね。
尾崎 特に作品みたいなものを思いつくわけではないけれど、いいものを見たときは、自分のことを考えたくなるんですね。悔しくなったり。
北方 その悔しいときに書きなよ。
尾崎 そうですね。実際、メモしたりしています。
北方 ホラズムが相手になってくると大将を倒すとか城をとればいいわけじゃなくて、現地を知っていかなきゃいけない戦になる。難しいけど、作戦とかも自分で考えるから書くのが面白いんだよ。
尾崎 そこまで広いものを書いたことがないし、今は書ける気もしない。小説の中の広さってどういうことなのかと、いつも考えてしまいます。
北方 いや、尾崎君が身の回りを描いたときに狭い気がするかもしれないけど、狭くないんだよ。それは小説の想像力から出ているから無限なんです。無限は心の中にある。俺は作家としての才能を認めていて、そこには痛みもあれば、焦りもある、いろんな思いがあっての描写になっているでしょう。
尾崎 たしかにそうですね。ありがとうございます。
北方 物理的じゃない広さというのが小説にあって、それが小説の命なんだよ。
尾崎 逆に閉じていって、内面にがっと潜り込んでいくことこそが、広さにもなるということですよね。
北方 その通り。
※『チンギス紀』シリーズの詳細は、公式特設サイトをご覧ください。
https://lp.shueisha.co.jp/kitakata/chingisuki/