ずっとむかつきながら書いていました

『犬のかたちをしているもの』(二〇一九年)で、第四十三回すばる文学賞を受賞し、『水たまりで息をする』(二〇二一年)が芥川賞候補に、そして『おいしいごはんが食べられますように』(二〇二二年)で、見事芥川賞を獲得した高瀬隼子さん。どの作品も女性の中に澱のようにたまっていく息苦しさや小さなむかつきに焦点を当て、その不穏な心持ちを日常の情景に浮かび上がらせた意欲作である。その高瀬さんの新刊『いい子のあくび』が、七月に刊行される。表題作はすばる文学賞を受賞後の第一作。この作品もまた“むかつき”に満ちている。
主人公の佐元直子は、学校でも職場でも恋人の前でも、「いい子」。人の悪口は言わないし、よく気がついて、さりげなく親切を発揮する。しかし、内面では自分の気遣いや親切がみんなに消費されていると感じている。仕事をしているのに愛想まで求められるのは、割に合わない。なんかむかつく。そんな怒りが高じて直子が取った行動は、ながらスマホの自転車に、わざと「ぶつかったる」こと。いつもよけてもらえると思うなよ――女性の底に沈むざらざらとした違和感を見事なまでにさらしていく手腕に圧倒される。「むかつきながら書いた」という高瀬さんに、作品に込めた想いをうかがった。

聞き手・構成=宮内千和子/撮影=山口真由子

「ずっとむかつきながら書いていました」身近にあるからこそ、染み出る現代女性の苦しみ 『いい子のあくび』高瀬隼子インタビュー_1
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むかつきを笑顔に変えても
何も変わらなかった

―― すばる文学賞を受賞して二作目で芥川賞候補、三作目で芥川賞の受賞は本当にすごいですね。高橋源一郎さんとのすばる文学賞受賞記念対談(本誌二〇二〇年三月号掲載)で、「女性としてむかつくことが、多々、多々、多々あります」とおっしゃっていましたが、この『いい子のあくび』をはじめ、高瀬さんの作品には、女の人が日々どこかで感じているむかつきが溢れています。

 私、緊張するたちで、源一郎先生との対談は頭が真っ白になっていたんですが、ものすごく引き出し上手な方で、こういうことが書きたいとか、自分の中にある感情について、いつの間にかお話をすることができたなと感謝しています。
「いい子のあくび」は、この対談のときにはもう書き始めていました。デビュー直後だったので、まだ自分が小説家という意識はなくて、働いている三十代女性、普通のOLが日々生きていると、むかつくなあということがやたら多いと思って。道を歩くだけでむかつくし、電車に乗るだけでむかつく。その気持ちを、別に攻撃されているわけじゃないのにと思っていたけど、じつは攻撃されているんじゃないかと思い直してみたり。実際に私自身はその体験をしてなくても、こんなことがあったらむかつくな、これがあったらさらにむかつくなと、嫌なことを想定して脳内でどんどんむかつきを生成していった感覚はありました。

―― 普段感じていたむかつきの多々、多々が溢れ出したという感じですね。

 そうですね。そういう感じがしました。

―― 作品の中に「感情の損得勘定」という言葉が出てきますが、日々いい子であるために大変なエネルギーを使っているのに、それを搾取されている、割に合わないよねという気持ちって、誰にでも心当たりがあると思います。

 何かにむかついてもそれを正直に態度に出しても、自分に得がないから出さないということは皆さんもあると思うんです。私も企業で十二、三年働いていて、何かあっても露骨に不機嫌になったりはしませんが、それって本当に割に合わないなと感じていました。
 でも、自分がにこにこしてやり過ごしたせいで何も変わらなかった。私は今年三十五歳になるんですけど、過去の自分が笑ってやり過ごしてきたことで、今の二十代の女性にしわ寄せがいっているんじゃないかと最近思うようになりました。「それセクハラなのでやめましょうよ」と私が二十二、三歳のときに言っておけば、今の新入社員の女の子は同じ目にはあわなかったんじゃないかとか。職場だけでなく、そういう場面がいくつも思い浮かびます。

人の親切を当てにしている
社会って何?

―― 小説の冒頭は、スマホを見ながら自転車に乗っている少年に、主人公の直子がわざとぶつかるシーンです。ケガしたっていいからぶつかったる。絶対によけてやらないぞと。物騒ですが、その直子の気持ちはちょっと共感できます。

 駅でも道でも、歩きスマホの人が来たらよけてあげる人のほうが多いから日々事故がないわけじゃないですか。でも、よけてあげるのをやめたらどうなるんだろう。みんなよけなくなったら、一分間で何人も事故にあうと思うんですね。今って、気づいたほうがしてあげる、かばってあげる、守ってあげるから回っている社会なんですね。人の親切を当てにしている。そういう社会ってもう嫌だなと思う気持ちもあって、このシーンを書きました。

―― その意味では、この作品の主人公には高瀬さんの気持ちがかなり入っている感じですか。

 この作品は、一度書き上げてから改稿して、改稿して、改々々々稿ぐらいまで手直ししたんです。書き始めはもちろん私自身のむかついた感情からスタートしましたが、私はこれしないなということを直子はどんどんしていくので、自分とは違う人になっていった感じがします。ただ、直子もそうですが、ぐるぐるぐるぐる考え続ける登場人物を出しがちで、そういう主人公が書きやすいんだなと最近思います。自分はこれを考えていると思っても、もう一人、さらにもう一人の自分が外から見ていて、一人の人間なのに三人ぐらいが、ぐるぐる思考を巡らせている。かといって、別に客観的に冷静なことを考えているわけじゃない。そんなふうに、単にぐるぐる考えてしまうことが私にもよくあるので、そこは似ているかもしれないですね。

―― 作品中にも、直子が自分の感情について、パズルのピースのようにばらばらだと感じる場面がありますね。一つじゃない、いろんな感情がせめぎ合っている。高瀬さんの小説を読んでいると、そんな複雑な感情が立ち上がってきて、自分の内面を探検しているような気持ちになります。

 ありがとうございます。そんなふうに読んでもらえたらいいなと思います。でも、難しいですね。書いているときは、全然共感してもらおうと思っていなくて、むしろ、怒られそうですが、読者の顔を全然想定していなくて……。というか、いつも追い詰められながら書いているので(笑)。

―― 以前も、取り残される焦りのようなものが常にあるとおっしゃっていましたね。

 小説家デビュー前、三十歳で『犬のかたちをしているもの』を書いていたときは、特に顕著でした。私、一生小説家になれない、やばいと思って……。周りに仕事や家庭や勉強やいろんなことで頑張っている友達が多かったので、自分は何してるんだろう、締め切りにも間に合わず応募もできないんじゃないかと、すごく追い詰められていました。デビューしてからは、年齢や周りに対する焦りが、小説家になれても一作で消えるんじゃないか、二作で消えるんじゃないかというプレッシャーにすり替わって。
 芥川賞を頂いてからは、本を読んでくれる人が増えたのはうれしいけれど、三年後、五年後に消えているかもとか、調子に乗ってしまって嫌われるんじゃないかとか、やっぱり追い詰められている。一方で、一人で家でぼーっとしていたりすると、小説はずっとやっていこうと思うけど、それだけではない自分の人生の先行きを考えて不安になる。その焦りや不安がまた小説のスタートになったりするんですね。