宮崎駿が映画のなかでいつも憧れていたのは、女性であり母親
よく『風立ちぬ』は、宮崎駿が自分の映画で初めて泣いた作品というふうに紹介されます。何かほかの作品とは違う、宮崎駿の琴線に触れるポイントがあるはずです。
大きなポイントの1つが、映画のなかに父を見たことではないかと考えます。
それまでの作品と『風立ちぬ』の違いは、ファンタジーではなく実在の人物を主人公にしたことも大きいです。ですがさらに大きな違いとして、宮崎駿が初めて父を描いた、という点があります。
宮崎駿が映画のなかでいつも憧れてきたのは、女性であり、もっと言えば母親です。ナウシカ、ドーラ、サツキとメイのお母さん、ジーナ、湯婆婆、ソフィー、リサ、グランマンマーレ......。その誰もが、宮崎駿が考える母性の象徴です。
一方、父性を強く感じさせるキャラクターは見当たりません。宮崎アニメに出てくる父は、物語や主人公を導く存在ではありません。世界を動かすのは、女性であり母親です。
宮崎はかつて父を嫌っていました。それは、先ほど引用した発言にもあるように、戦争に加担したという自分の行いに対して、あまりにも無責任だったからです。『腰ぬけ愛国談義』では、さらにこんなエピソードも語られています。
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こんな映画を観たとかストリップへ行ってきたとか、そういうことを平気で家でしゃべる男でした。ぼくをつかまえて、「おまえ、まだ煙草も吸わないのか」とか、「オレはおまえぐらいのときには芸者買いしていた」とか、そういうことまで言っていました。で、ぼくは絶対こういう男にはなるまいと思った(笑)。
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※半藤一利・宮崎駿『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫
享楽主義でデリカシーもない遊び人。嫌っている父を、宮崎駿が描くことはありませんでした。
作品を通じて父と和解した宮崎駿
しかしついに『風立ちぬ』で、父を描き出します。しかも批判的に描くのではなく、飛行機という夢を追う純粋な人間として。父への赦しがうかがえます。作品を通じて再会を果たした宮崎駿は、父と和解をしたのではないでしょうか。
『風立ちぬ』を監督自身の罪と罰を内省した私小説的作品とだけ見るのは、浅い見方です。もちろん、監督本人を慰めるセラピー的な映画ではあるのですが、宮崎駿が内省したかったのは、自分の姿だけでなく、父への思いだったのです。
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衝突やらなにやらいろいろありましたけど、このごろようやく、やっぱり親父を好きだな、と思うようになりました。
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※半藤一利・宮崎駿『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫
『腰ぬけ愛国談義』から宮崎駿のこの言葉を引用して、本章を終えることとします。
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