「藤原紀香さんがやってるのを見て『これだ!』って」

「撮らないで……」藤原紀香さんにヒントを得たトレーニングで倒れた栗城史多氏が、その様子をカメラに撮らせなかった理由_2
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3月の頭には、フィットネスクラブに私たちを誘った。

「栗城のトレーニングなんて、ちょっと撮れないですよ」と自分で言うところが彼の「らしさ」だが、私は好意的に受け取った……《やはり番組が流れたことを、彼なりに、申し訳なかった、と思っているようだ。面と向かって「すみませんでした」と言えないタイプの人間なんだろう。根は悪いヤツじゃない》。

観察モードの私が応援モードに再び舵を切ることはなかったが、彼への不信感は少しずつ鎮まっていった。

フィットネスクラブで栗城さんは、まずランニングマシーンに乗った。他の利用者と明らかに違うのは、彼の口が黒いゴムのトレーニングマスクで覆い隠されていたことだ。肺活量と持久力を高めるマスクだという。

ズー、ファー、ズー、ファー。

シリコンのレギュレーターから映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーの吐息のような音が漏れてきて、私は呆気に取られた。

やがてフロアに下りてマスクを外すと、彼は自ら考案したという「凍傷にならないための訓練」に移った。両手を顔より少し上に上げ、強く握ったり開いたり、あるいは左右の手でザイルを手繰り寄せるような動きをひたすら繰り返した。苦しそうに喘ぎながら、この訓練について解説してくれた。

「全身の、フー、毛細血管に、ハッ、血が、流れていく、ウッ、様子を、イメージしながら、クー、やる、んです」

栗城さんは二の腕と足の付け根に、左右とも黒いバンドをはめていた。加圧バンドだ、と教えてくれた。

「誰かに教わったんですか?」

この日の栗城さんは精悍なアスリートの顔をしていたが、私がそう尋ねた途端、表情が崩れた。

「藤原紀香さんです。テレビで加圧トレーニングをやってるのを見て、『これだ!』って」

栗城さんはマットの上で腹筋運動を始めた。ところが、わずか数回で動きを止めてしまう。フラフラした足取りで更衣室の方に向かったのだ。

なかなか戻って来ない。心配になって覗きに行くと、栗城さんはロッカーの前で倒れていた。ウッウッウッ、と声を漏らしながら、苦しそうに全身をくねらせている。

このとき、私は呼びに行こうとした……ジムのスタッフではない、カメラマンを、だ……。苦しんでいる栗城さんを「撮らなければ」と思った。だが、彼と目が合ってしまった。私は栗城さんに近づいて、こう聞いた。

「大丈夫ですか? ジムの人、呼んできますか?」

栗城さんは、私の心を見透かしていた。

「撮らないで……」

なぜあのとき、「いえ、撮ります!」と言わなかったのか、私は後からとても悔やんだ。
かっこ悪いと栗城さんは思ったのだろう。《テレビの撮影を意識してついやりすぎた》……苦痛と混乱の中で「撮らないで」と発したのだと想像する。

だが、かっこ悪いから、かっこいいのだ。やりすぎてぶっ倒れるドジなところが愛おしいのだ。栗城さんのためにも撮っておくべきだった……。

オッチョコチョイだったり、危なっかしかったり、かわいく思えたり、腹が立ったり、呆れるしかなかったり……この人は本当に「困ったちゃん」だ。

文/河野啓

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デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場
著者:河野 啓
「撮らないで……」藤原紀香さんにヒントを得たトレーニングで倒れた栗城史多氏が、その様子をカメラに撮らせなかった理由_3
2023年1月20日発売
825円(税込)
文庫判/384ページ
ISBN:978-4-08-744479-7
第18回開高健ノンフィクション賞受賞作
「夢の共有」を掲げて華々しく活動し、毀誉褒貶のなかで滑落死した登山家。
メディアを巻き込んで繰り広げられた彼の「劇場」の真実はどこにあったのか。

両手の指9本を失いながらも〝七大陸最高峰単独無酸素〟登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ注目を集めたが、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。彼はなぜエベレストに挑み続けたのか? そして、彼は何者だったのか? かつて栗城氏を番組に描いた著者が、綿密な取材で謎多き人気クライマーの真実にせまる。
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