高卒後にNSC(吉本)東京に進学。栗城史多はお笑い芸人を目指していた!?
「彼の技術じゃ無理だ、って誰もが思いますよ」登山器具もまともに扱えなかった栗城史多がマッキンリーを目指した理由

偉大なるマッキンリー

「ええっ! 登ってしまったか!」登山歴2年の若者・栗城史多がマッキンリーで起こした奇跡_1
マッキンリー
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マッキンリーへの入山申請は、前述した札幌国際大学の助教授が代行した、いや、させられた。その様子を見ていた同い年の亀谷和弘さんは言う。

「栗城は先生に国際電話までかけさせてましたよ。『全部やってください』って。『お前、そんな調子で、向こうに行ってからどうすんのよ?』って聞いたら、『かめちゃん、2つの単語さえ言えればいいんだよ。アハンとウフン』って」

2004年5月下旬、栗城さんはマッキンリーに向かった。

「デナリ(偉大なるもの)」

先住民は巨大で荒々しいこの山を、そう呼んだ。いくつもの絶壁と稜線が折り重なって幾何学模様を成し、頂からは幅広い氷河が流れている。この偉大なる山に、登山歴2年の小柄な若者が挑んだのだ。

標高2200メートルのBC(ベースキャンプ)から山頂までは28キロ、標高差は約4000メートルある。荷物を積んだソリを引っ張り、体を標高に慣らしながら登っていく。ある程度上がると、一部の食料を雪の中にデポ(体力的な負荷を軽減するため、荷物をルート途中に置いておくこと)し、少し標高を下げたキャンプ地にテントを張る。

通常の登山隊はアルファ米という、お湯を注いだだけで食べられる米を持って行くが、値段が高いため、栗城さんは普通の生米を4キロ持参した。それを見た台湾からの登山者に笑われたそうだ。標高が高くなると気圧が下がる。お湯を沸かす際、外の空気の重しが少ない分、水蒸気になりやすく、100℃より低い温度で沸騰する。そのせいで、生米は家庭で炊くよりも相当硬く炊き上がった。それでも食べられないほどではなかったそうだ。

栗城さんは初めて高度障害とも闘った。

呼吸をする際、起きている間は意識して、深くゆっくりとするよう努めるが、寝ている間はどうしても浅くなってしまう。そうすると体に取り込まれる酸素の量が減ってしまうので、頭痛や、めまい、吐き気などの症状が出てくる。熟睡など到底できない。むしろ睡魔と闘わなければならないのだ。視界が紫色になる経験もした。そういうときは標高を十分に下げて回復を待つしかない。

標高4700メートル付近からフィックスロープが張ってあった。森下先輩に借りたユマールを使って、栗城さんは少しずつ高度を上げていった。