30年のマンガ家生活で、
閃いたのは7回ぐらいしかない

――では、マンガ家人生を振り返って転機になったなと思うことはありますか?

手塚賞を獲ったことです。マンガ家を目指した頃の大目標は、ちばてつや先生の名を冠した賞を獲ることだったので、初投稿先は「週刊ヤングマガジン」。そこで月例賞の佳作を獲って、次はちばてつや賞を目指そうとなったのですが、30ページのうち残り2ページというところで8月31日の締め切りに間に合わなかったんです。
近い締め切りで他に出せるところはないかと探したら、1か月後が締め切りの手塚賞があって。募集が31ページで、展開が駆け足だなと思う部分を1ページ増やせるのもちょうどよく、描き直したものを投稿しました。

――その時の投稿作が、第42回手塚賞(ストーリー部門)で準入選しました。

長らくチャンピオン読者だったこともあって、「週刊少年ジャンプ」にそこまでの思い入れはなかったのですが、僕の作品を推してくださった審査員が、本宮ひろ志先生と小山ゆう先生だったんです。

――ちば先生と小山先生が進路に影響を及ぼしたというお話は、こういうことだったんですね!

はい。小山先生が推してくださるなら「ジャンプ」でお世話になろうと。

――デビュー後は、『ソムリエ』『LIAR GAME』『ONE OUTS』『小田霧響子の嘘』……そして最新作の『カモのネギには毒がある 加茂教授の人間経済学講義』(以下『カモネギ』)と、知的好奇心を刺激する作品を発表しつづけてこられました。アイデアを生み出すコツのようなものはあるのでしょうか?

デビュー当時は浦沢直樹を研究してパクった!?  ヒットを生み続ける漫画家・甲斐谷忍のマンガ術_1
すべての画像を見る

僕はどこかでアイデアが閃く人だと誤解されているのですが、30年のマンガ家生活の中で、閃いたことって7回ぐらいしかないんです。
描いていることも誰でも思いつくようなことばかりで、それを何か凄いことをやっているかのように見せる努力だけは常にしている感じです。