八場の演劇そのものの短篇集
なんだろう、この穏やかさ、静けさは。そして、ほのかな苦味を伴った悲哀は、いったい何から生まれてくるのだろう。
小川洋子の八本の短篇を収めた『掌に眠る舞台』である。八本すべてが何らかのかたちで芝居や舞台に関わっている。
「ユニコーンを握らせる」は、大学受験時の五日間を、昔女優だったという遠縁の「ローラ伯母さん」のもとで過ごす女子高校生の話。伯母さんの家では、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』のローラの台詞の一行が、どの食器にも小さな文字で記してある。紅茶を飲みほしたカップの底に文字が現れると、伯母さんは突如その台詞を語る。それまでとは打って変わった張りのある声で「“一人もこないわよ、母さん”」。
「ダブルフォルトの予言」は、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の全七十九公演を律儀に見て、やがて帝国劇場に「住んでいる」と言う女性の部屋に招かれる元洋品店主の話。「花柄さん」の主人公は、花柄のスカートで近隣に知られる女性で、様々な劇場の楽屋口で、自分が見もしない芝居の出演者を待ち、そのサインをもらったパンフレットを蒐集。彼女の死後、ベッドの下にはきっちり詰め込まれたパンフレットが地層のように重なっていた。
などなど、どの登場人物の行動も奇行の部類に入るだろうが、そう呼ぶのが躊躇われるのは、それがあまりにも密やかで、波も風も立たない秘め事だからだ。
どの話も、語り手一人しか知らないことだったり、二人きりの関わりごとだったり。そこで思い出したのは、劇作家・演出家の故太田省吾の二人芝居『更地』の台詞である。中年の妻は夫に言う、「二人だけしか知らないこと」は「現実にはなかったことかもしれない」と。
八篇に共通する静謐は、「なかったことになる」のを予め運命付けられているからこそ生まれているのではないか。あり得ないことやあり得ない人をあらしめる筆力、それが紡ぎ出す不思議と謎。
『掌に眠る舞台』そのものが八場の演劇だ。