言葉に囚われるとロゴスさえ使えなくなる

宮台 性愛の統計だと、性交経験率は男女同じだけど、恋愛稼働率はどの世代でも男は女の半分で、交際未経験率はどの世代でも男は女の倍。男に尋ねると、「コスパが悪いので」「リスクマネジメントできないから」と返してきます。

恋愛が損得勘定で考えられているんですね。性愛が、享楽という絶対性じゃなく、快楽という相対性でイメージされている。性愛に限らず「同じ世界」で「一つになる」ことが与える眩暈は、比べられないものであるはずなんだけど……

おおた そこでじゃあやっぱり、原体験としての森のようちえん的な体験がないと限界があるぞと思われたということですよね。

宮台 そう。他方で、女も20数年前のピークに比べると、恋愛稼働率がかなり下がりました。理由を尋ねると、「男と何度か恋愛したけど、クズぶりに懲りた」と答えます。そこから、男女の性愛感にかなり違いがあるのがわかります。

相対的に言えば、男は既に、性愛の時空を「言葉と法と損得」からなる社会の時空に繰り込んじゃっていますが、女はまだ、性愛の時空を「言外・法外・損得外」としてイメージしているってことです。

男は哀れだよね。定住が祭りと共にあったのは、「言葉と法と損得」からなる社会の時空は仕方なく「なりすまして」生きるものだ、という感覚があったからです。90年代までに全国の主要な祭りを回って、そのことがよくわかりました。

その感覚があるから、祭り同様、性愛の「言外・法外・損得外」の時空を生きてきたんです。祭りが消えたいま、性愛を「言葉と法と損得」の時空に繰り込んじゃったら、生きづらくて当たり前。実際、ひきこもりも孤独死も男が圧倒的です。

そもそも言葉なんてどうでもいいじゃんね。僕が論争に強いのは、言葉なんてどうでもいいと思ってるからです。言葉ごときに実存を賭けちゃうから、負けるのが恐くて論争で固まるんです。それだとロゴスさえ使えなくなっちゃいます。

「ロゴスを自由に使える前提はロゴス以前のレンマに開かれていることだ」と喝破したのが哲学者の山内得立。レンマとは、先取りされた言外の全体性です。論争に勝ちたければ、ロゴスの力だけ鍛えてもぜんぜんダメなんですよ。

80年代に一斉を風靡した、日本で自己啓発セミナーと呼ばれたアウェアネストレーニングでも、それを最初に学びました。相手が語るテクストじゃなく、相手にそれを語らせているコンテクストに、注意をフォーカスするってことです。

ちなみにアウェアネストレーニングは、ベトナム帰還兵による凶悪犯罪の続出に対処して、ジャングルでの戦闘に最適化された心の枠組みを、日常を生きるための枠組みへと書き戻すために開発されたものです。

書き戻しの過程で重視されるのは、自我が、言葉で構築されたフレームに閉ざされていることへの、気付き(アウェアネス)です。このフレームは、流派によってストーリーとかゲシュタルトとか神経言語プログラムとか呼ばれます。

具体的には離陸・混融・着陸というイニシエーション(通過儀礼)の三段階を使って古いフレームを新しいフレームに書き換える。そのために一度フレームの外に立つ。それが「テクストからコンテクストへ」「ロゴスからレンマへ」です。

これをオウム真理教のようなカルト集団が洗脳手法に使ったので、90年代後半までに社会から放逐されたけど、このトレーニングを受けると、瞬時に「テクストの外=コンテクスト」「ロゴスの外=レンマ」に立てるようになれます。

おおた 僕は仕事柄ロゴスに頼ってしまうことが多いので、身につまされますけれど、もともとそういう身体性みたいなものを我々はもっていて、そのポテンシャリティを担保して、豊かな原体験とすることによって、社会の劣化、感情の劣化を食い止めるためのリソースになるわけですね。