「文明の自滅」を食い止めるための道筋は

宮台 後期ハイデガーに遡れば、存在論的転回が示唆する警告も明らかです。有名な木こり論に見るように、駆り立て連鎖に巻き込まれたひとは、誰が誰(何)のために何をするのかについての錯誤的意識に閉ざされ、文明は自滅に突き進みます。

その過程は、資本主義が悪いとか近代が悪いといった生易しいものじゃなく、そもそも文明化の自然過程に起因します。僕の考えでは、宇宙にあるあまたの知的文明の大半が同じ自然過程で自滅します。だから知的文明同士の出会いがない。

自由主義言語学者チョムスキー&気候学者ポーリンの『気候危機とグローバル・グリーン・ニューディール』が言う通り、気候や生態系は大切だと「個人が意識して選択」するだけでは、気候危機は止まらず、やがて文明は自滅します。

根本的処方箋は、イリッチやデ・カストロが言う、持続可能性が担保された「心身の働き」と「集団の生活形式」の積に戻ること。それには「人間中心主義の非人間性」を象徴する文化相対主義を否定、文化絶対主義の立場をとることです。

デ・カストロは、唯一の正しい文化がアニミズムだとします。アニミズムは遊動段階から万年のオーダーで人類を持続させてきた「森の思考」です。ちなみに後期ハイデガーも森に沈潜して存在論的に転回(ケーレ)したんですね。

アニミズムはキリスト者が妄想する「万物に精霊が……」という思考じゃない。ひとが見るように、動植物も無生物も見る(その意味で万物は人間)とする構えです。ひとに見られなくても、万物に見られ、ひとは「自動的に」正しく振る舞う。

進化生物学から派生した進化心理学を加えます。ひとは「何か(誰か)に見られないと狂う」ように進化しました。道具や言語を生み出す前提になった個体の圧倒的弱さが、何か(誰か)に見られてちゃんとするゲノムを生き残らせたんです。

ユダヤ教と違い、イエスが育ったガリラヤは緑なす大地。ユダヤ教と違い、主なる神は這いつくばって救いを引き出す取引相手じゃなく、いつも見ている存在。見て下さるだけでちゃんとできる。それが「神はいつも隣におられる」です。

ひとは「何か(誰か)に見られないと狂う」。でもひとは集団で暴走する。現に言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン化でそうなった。ひとの見る力では足りない。存在する全てから見られている。そう感じて初めてちゃんとします。

学問で言えば、バタイユの「呪われた部分」にシンクロしますが、ラカンはシニフィエによる抑圧を問題にして万人が神経症だとし、シニフィエつまり「言葉のラベル」を横に置き、シニフィアンの群れに適切に反応するのを良しとします。

生態心理学が発達した今日、シニフィアン群に適切に反応するための、シニフィアン群からなる天球儀の座標=シニフィアン・ゼロは、「存在する諸事物のすべて(万物)からなる単一の世界を生きている」という身体的な確信だと言えます。

フロイトによれば自我は、「環境の直接性」と「反応の極端さ」から個体を守るべく進化した、「言葉のラベル」で組み上がった自己現象です。でも、文明化を背景にそれがランナウェイ(暴走)し、文明を自滅させる。見田宗介の考えです。

他方、僕らは正しく言葉(ロゴス)を使えと訓練される。でも言葉は本来ひとりずつ違う。正しい言葉遣い(ラベル貼りと運用)があるとの観念がひとを抑圧し、存在しない「日本」や「アメリカ」が、あるという自明性に縛りつけます。

でも、言葉(とそれを前提とした法と損得勘定)に向けた抑圧は、必ずそれを破壊する営みの享楽を生み出します。フロイトの「超自我」のメカニズムです。その享楽を利用して「力」を回復するのが、話してきた祭りと性愛でした。

ところが、まず祭りが、次に性愛が、消去されます。これだと抑圧による不安から永久に解放されない。そうなれば「超自我」は持続できない。となれば「言葉と法と損得勘定」で回る文明社会も破壊される。文明の自滅のメカニズムです。

あらゆる学問を激しく学ぶと異口同音だとわかります。処方箋を確認すると、デ・カストロがいうアニミズムを含めて、「人間中心主義の非人間性」から「脱人間中心主義の人間性」にシフトし、「正しい文化」を回復することです。

「個体発生は系統発生をくり返す」が糸口です。いまでも子どもは、クソ社会への適応優位のクズ親に囲い込まれて「不安な自動機械」の大人になる前までは、「言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「一つになる」能力をもちます。

だから、クソ社会に適応させようとするクズ親から、子どもを奪還し、子どもの個体発生の初期段階が指し示してくれる、人類の系統発生の初期にあった「正しい文化」を、子ども「に」学ぶことで、大人「が」取り戻していくんですよ。