執筆前の、幻の「ロードショー」デビュー!

1992年末にヘラルドを退職、僕はフリーの映画ジャーナリストとして独立した。宣伝マン時代の知り合いの編集者らが声を掛けてくれ、マガジンハウスの「POPEYE」をメインに物書き業をスタートさせたが、そのうち「ロードショー」からもお声がかかった。

思い入れのある雑誌といっておきながら、初めて「ロードショー」から依頼された原稿が何についてだったか、実はもう忘れてしまった(申し訳ない!)。でも、当時はいろいろな雑誌に沢山書いていて、ひとつひとつの記事に関してなどとても覚えていないというのが実情。

たまに、原稿を書くのに参照しようと、たとえばオードリー・ヘプバーンについて書こうと思って、オードリーの特集を組んだ古い雑誌やムックなどをパラパラ見ていて、その中に自分の書いた原稿を発見してビックリすることがある。――自分では、書いたことすらすっかり忘れてしまっているのだ! だが、「ロードショー」に初めて自分の名前が載った日のことはよく覚えている。

それはまだ僕が中学1年だった、1976年2月1日のこと。――映画スターの似顔絵コーナーに投稿した、僕のジェームズ・スチュアートの似顔絵が選外佳作に選ばれ、読者ページの紙面を飾ったのだ。選外佳作だから扱いは小さかったけれど、たぶん自分の名前(とイラスト)が雑誌に載ったのはこれが初めてだったからうれしかった。

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当時の誌面。真ん中あたりに掲載されているのが、谷川少年による作品

その後、翌年には来日したジェームズ・スチュアート本人に会って別の似顔絵をプレゼントしたところ、とても喜んでビバリーヒルズの自宅に飾ってくれ、その後彼が亡くなるまで手紙のやり取りを続けさせてもらい、ヘラルド入社後の1985年には第1回東京国際映画祭のゲストとして来日した彼と再会も果たしたのだった。

後年、フリーになってからいくつかの雑誌の連載では文章と共にイラストも描かせてもらったが、その原点はこの「ロードショー」1976年2月号にあったのだ。

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©ロードショー1976年2月号/集英社
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ジェームズ・スチュアート
James Stewart

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『裏窓』でグレース・ケリーと
Capital Pictures/amanaimages

“アメリカの良心”とも呼ばれたハリウッドを代表する名優。
1908年5月20日、米・ペンシルベニア州生まれ。大学で建築を学ぶが、演技を志し、ブロードウェイを経て、30年代に映画俳優に。名匠フランク・キャプラ監督と『素晴らしき哉、人生!』(1946)他、アルフレッド・ヒッチコック監督と『裏窓』(1954)他、オールタイムベストに入る名作に次々と主演。『フィラデルフィア物語』(1940)でアカデミー主演男優賞に輝き、1984年には長年の功績により名誉賞を受賞。
1997年7月2日、ビバリーヒルズの自宅で家族に見守られて逝去。