ハリウッド映画から香港映画へ…
長く映画ファンに親しまれた「ロードショー」。休刊からレーベル復活とのニュースに、うれしさと懐かしさの入り混じった思いがある。『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)を見たのがきっかけで映画ファンになった私は、まずは読者として「ロードショー」を手にし、のちにLA在住中にライターとしてもすこ〜しだけ、小さな記事を書いたりして関わることができた。いやむしろ、お世話になったと言ったほうがいい。この特集にふさわしくないかもなぁ、と思いつつ、書いてみようと思う。
1980年、私は学生ビザを取得して、単身、知人もいないロサンゼルスへと札幌から旅立つ。まだ留学ガイドの本もインターネットもない頃だったが、映画雑誌に投稿したり、同好誌に散文を書いたりしており、映画好きならアメリカに住んでみるべき、と思ったのだ。
地元の北海道新聞に映画コラムを送る約束があり、新作映画の紹介や、『スターウォーズ/帝国逆襲』(1980)公開の2、3日前から路上でキャンプして入場一番乗りを目指す熱狂的なファンの姿などをリポートしていた。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)の初日上映で、ハリソン・フォードの階段を降りる足がアップになった瞬間に館内の女性ファンから湧きあがった嬌声!とか。あのときは純粋に驚いた。アメリカの観客ってスゴいと思った。
当時、LA在住の映画ライターは数えるほどしかいないなかった。次第に映画誌、女性誌、スポーツ紙、週刊誌から原稿依頼が舞い込む。業界で“ジャンケット”と呼ぶ監督、脚本家、スターたちとのインタビュー、ロケ撮影やセット訪問などの取材で忙しかったし、うれしくもあった。
キャリアの初期に会って何か持っているなと感じさせられた役者が、あっという間に主役になっていくさまを間近で見ることができた。たとえば、『テルマ&ルイーズ』(1991)のブラット・ピットや、『マグノリアの花たち』(1989)のジュリア・ロバーツなど、数え出したらキリがない。それから「ロードショー」特派員の中島由紀子氏とお茶をしていたら、ウィノナ・ライダーが奥の席で知人らしい初老の男性と話し込んでいた…なんていうこともあった。
大きな転機は1995年。アメリカ人が香港映画の面白さに気づき始めた頃。私もその2年くらい前から新旧の香港映画を求めて、チャイナタウンや中華系の人々が多く住むLA郊外へ出向き、ビデオやレーザーディスクをレンタルしていた。そこには香港映画専門の映画館もあった。
90年代は香港映画が最盛期を迎えた時期で、年間200本もが製作されていたのだ。
そのようなことを知った「ロードショー」編集部H氏が私に香港国際映画祭への参加を勧めてくれた。H氏は絶大な人気を誇ったジャッキー・チェンの担当をしていた方だ。電話で映画祭のプレスパスを手配してくれて、さすが、「ロードショー」と思った。香港は地図さえあればほとんどの目的地に行けるよ、と教えられて、映画を見たり、アニタ・ムイのコンサートにまで行ったりして自信をつけた。以来、10年以上にわたってファン気質まるだしで香港に通うことになる。