冷戦外交と“戦後保守”の終幕
先述したように自民党は、頭山満の率いた玄洋社の流れを汲む保守右翼思想がその根っこにある。
第二次大戦末期に中国・上海の児玉機関で荒稼ぎした児玉誉士夫、辻嘉六という二人の黒幕が、日本自由党の結党資金を出したという有名な話もある。
児玉は頭山に私淑して書生となり、のちに自らの側近である太刀川恒夫を中曽根康弘事務所に送り込んだ。かたや辻は反東條英機内閣で干されていた鳩山一郎や三木武吉の後ろ盾として児玉とのパイプ役となった。二人は1955年の日本民主党と自由党の保守合同の自民党誕生にも尽力したといわれる。
自民党に右翼思想が通底しているのは間違いない。しかしそれは現代のタカ派思想とも異なるように感じる。山崎はそこについてどうとらえているか。
「今の自民党と昔の自民党の違いは、戦争経験者が党内にいるかどうかです。戦争体験者である田中角栄さんは『戦争体験者がいなくなったときが怖い』と言っていました。田中さんはどちらかといえば保守のなかでも左派なんです。中曽根さんと田中さんは当選同期で年齢も同じですけれど、中曽根さんは右翼思想の持ち主でした。
ただし、今の右翼とは違う。
たとえば高市政権で非核三原則の見直し問題が浮上しています。たしかに中曽根さんは日の丸を大切にし、『憲法改正の歌』をつくったナショナリストではあったけれど、終生変わらず原子力の平和利用は推進すべきだが、非核三原則は厳守すべきだとも言い続けてきました。
私はその中曽根さんの家来として、内閣の官房副長官もやったし、そばでそれを見てきました。
中曽根さんは東西の冷戦構造解消をずっと追い求めていた。日米首脳会談に何回か同席し、米国大統領のロナルド・レーガンに提唱している姿を見てきました。それだけでなく、崩壊前のソ連のミハイル・ゴルバチョフがコンスタンティン・チェルネンコのあとに書記長に就任したときも、冷戦構造解消の必要性を訴えてきた。中曽根さんは決して戦争主義者ではありませんでした」
もっとも中曽根には常に米国追従イメージが付きまとってきた。「ロン」「ヤス」と互いにファーストネームで呼び合う首脳外交は、現在のトランプと高市のあいだでも続いている。中曽根はそれでも米大統領と渡り合うことができたのか。
「レーガンはアジアの地政学的な事情をよくわかっていませんでした。韓国は中国やソ連と国交がなく、北朝鮮は日本やアメリカと国交がなかった時代です。中曽根さんは旧西ドイツでおこなわれた1985年のボン・サミットのとき『たすきがけ承認をしましょう』とレーガンに迫りました。
レーガンははじめその意味がよくわからなかったようですが、西側のわれわれが東側の北朝鮮と国交を結び、東側の中国やソ連が西側の韓国と国交を結ぶという提唱です。
中曽根さんの提唱を受けたレーガンは会議を中断し、同行したシュルツ国務長官とワインバーガー国防長官、リーガン財務長官などとともに別室に下がって、たすきがけ承認について30分ぐらい協議していました。で、結果的に認めようとなりました。
つまり当時の冷戦構造の象徴が朝鮮半島であり、東西ドイツのベルリンの壁でした。ベルリンの壁はNATO(北大西洋条約機構)の担当だから、NATOの盟主であるアメリカの方でやってくれ、その代わり朝鮮半島は日本の至近距離にあるから、日本が担当しようという話です。そうしてたすきがけ承認をレーガンと密約し、動くようになったのです」
それが1990年9月の自民党と社会党の「金丸訪朝」として実現する。自民党の金丸信が中国に働きかけ、平壌で北朝鮮国家主席の金日成と会談した。山崎はその金丸訪朝にいたるまでの秘話を明かす。
「たすきがけ承認は日米の密約でした。官房副長官だった私は、報道記者に対するブリーフィングをしなければならない立場でもありました。しかし、あまりに機密の話なので発表すると計画が壊れる恐れがある。だから、伏せるべきだとして捨ておきました。
その一方で中曽根さんは韓国大統領の全斗煥に連絡を入れていました。全斗煥もたすきがけ承認をOKし、1990年には韓国がソ連と、1992年には中国と国交正常化を果たしました。だから今度は日本が北朝鮮と国交正常化しなければならない。それで、金丸訪朝団を派遣したんです。あの訪朝、本当は中曽根さんが仕掛けてやったことなんです」
中曽根は1987年11月に竹下登を後継指名し、首相の座から降りる。そのあと竹下から宇野宗佑、海部俊樹と政権が目まぐるしく移るなか、中曽根は自民党内で影響力を保ってきたという。
しかし90年の金丸訪朝は「土下座外交」と批判を浴びた。金丸訪朝の裏では、88年に拉致被害者の石岡亨から欧州経由で送られた手紙が家族にもとに届き、家族が日本社会党委員長の土井たか子へ相談した。だが、彼女は事実上それを無視した。土井はこの年浮上したリクルート事件などでマドンナ旋風を巻き起こしたが、91年4月の統一地方選で惨敗し、田邊誠に委員長ポストを譲った経緯がある。山崎に聞いた。
「社会党の訪朝団には社会党の田邊誠副委員長も加わり、いっしょに行きました。土井たか子は金日成から拉致問題は存在しないと言われ、問題にしませんでした。だからあのときの訪朝では北朝鮮の拉致問題はまだ顕在化しておらず、わからなかったと言う以外にありません。
日朝会談で金日成は開口いちばん『あなたの先祖はわが国の出身だ』と金丸に切り出した。 向こうはそれを調べてたんでしょうか。そのあと田邊を外し金丸と金日成の二人きりで会食し、先祖は共通している、と意気投合した。あのときはそれでうまくいったけれど、その後、拉致問題が露見したわけです」
小泉純一郎訪朝団が北朝鮮総書記となった金正日のもとを訪ね、囁かれてきた日本人拉致という重大事件が判明したのは、金丸訪朝から12年も経った2002年9月のことだ。自民党副総裁の金丸と社会党委員長の田邊の二人は、文字どおり55年体制の時代の象徴でもあった。保革伯仲の対立といわれながら、実のところ双方が馴れ合ってきたにすぎない。
自民党はリクルート事件以降、政治とカネで揺れ動いた。竹下、宇野、海部と移り変わった内閣は、微妙な権力バランスで成り立っていたといえる。この間、最大派閥を率いた経世会竹下派の威勢の下、金丸が訪朝したのだが、もともと竹下政権を生んだのは中曽根であり、竹下と中曽根の二人は脱田中支配という共通の利害があった。
永田町で「風見鶏」と揶揄された中曽根康弘は、田中曽根内閣とも皮肉られた田中の傀儡政権であった。中曽根は田中後の自民党政治に大きな影をもたらす。(敬称略)
取材・文/森功












