山崎拓を形づくった炭鉱と玄洋社

55年体制を紐解くにあたり、建設大臣や自民党政調会長、幹事長、副総裁を務めてきた長老の山崎拓にも聞いた。

戦前の関東州(現中国大連市)に生まれ、終戦を待たず6歳で福岡県に引き揚げてきた山崎は、今年12月に卒寿を迎える。柔道六段、1964年の東京五輪柔道重量級で金メダルに輝いた猪熊功と互角の闘いをしたという逸話もある。今も日本武道館の全日本柔道選手権などを観戦するという。

山崎拓元自民党副総裁 撮影/内藤サトル
山崎拓元自民党副総裁 撮影/内藤サトル

「あれ(猪熊との試合)は全日本選手権とかそんな大会ではなく、毎月初段から四段までが参加してきた講道館の月次試合というのがありましてね、そこで彼とあたっただけの話なんです。今でも柔道観戦だけでなく、月に2回は福岡から東京に出てきて政界関係者や旧知のマスコミの方と会っています。人と会うのが仕事ですから」

山崎は小学3年生の少年時代に隻眼となるも、国立の福岡教育大附属福岡中学校から江戸時代の黒田藩校を起源とする福岡県立修猷館高校を経て早大第一商学部に進んだ。高校、大学時代を通じて柔道部に所属し、各種大会に出場してきた。

学生としては最高段位の四段になった。早大を卒業したあとは県内久留米市発祥のタイヤメーカー「ブリヂストン」に5年勤務して政界入りする。政治の出発点は1967年の福岡県議会議員選挙だ。

「同じ昭和11(1936)年生まれに日高康という福岡県議会議員がいましてね。私は修猷館と早大で柔道をやっていて、日高は北九州市にある同じ県立の東筑高校と明治大学で野球をしていました。日高の高校時代はのちに西鉄ライオンズの2塁手として活躍した仰木彬が1年上にいてピッチャー、日高はレフトを守って甲子園にも出ました。

私のあとから日高も県議になり、柔道と野球というスポーツだけでなく、彼の家が伊藤伝右衛門に連なる炭鉱を経営していた。私の祖父も、父方・母方ともに炭鉱の経営者だったこともあり、とても親しくしてきました。私は2年間だけ県議を務め、そこから中曽根康弘さんに薦められて(1969年の)衆院選に出て落選しました」

ちなみに日高は映画俳優の高倉健の従弟であり、福岡県議を経て高倉プロモーションの専務となる。柳原白蓮の夫として名高い伊藤伝右衛門の近縁にあたり、高倉健の実父も伊藤系列の炭鉱で現場監督をしてきた。

中曽根康弘に見出されて国政を目指した山崎は、3年の浪人生活を経て1972年12月に衆議院に初当選する。折しも第一次田中角榮内閣で日中国交回復がなされたあとの11月の衆院解散は「日中解散」と称された。

自民党の当選同期には小泉純一郎と加藤紘一がおり、のちに3人は互いの頭文字をとってYKKと呼ばれる盟友関係になる。他の同期当選議員には三塚博や石原慎太郎、村岡兼造や瓦力、保岡興治、越智通雄、野田毅、深谷隆司など、錚々たる顔ぶれが並ぶ。

初当選組のうち山崎、石原、保岡は無所属だったが、選挙後はみな自民党に入り、中曽根に見初められた山崎は中曽根派の新政同志会に加わった。

三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘それぞれが派閥を率いた「三角大福中」時代の総裁争いの真っただなか、中曽根は福田から田中に支持を乗り換え、田中が首相に就いた。山崎はその中曽根派で世襲でないたたき上げ国会議員として頭角を現わしていく。ただし自民党内で出世できた裏には、別の理由もあったようだ。

山崎の祖父は父方、母方ともに石炭の鉱山を切り拓いた炭鉱の大物経営者だった。父方の祖父は山崎和三郎といい、筑豊地域の飯塚炭鉱、母方の祖父である山口慶八は山口鉱山を経営し、佐賀県多久市の小城炭鉱をはじめ幾つもの鉱山を開発した。山崎が解説する。

「簡単にいえば、炭鉱屋同士の親が息子と娘を結婚させたのです。どちらも名の知れた炭鉱で、なかでもいちばん大きかったのが母方の祖父が開発した小城炭鉱でした。もう一方の父方の祖父である和三郎はあの玄洋社の幹部であり、頭山の盟友であった中村徳松がオーナーである飯塚炭鉱の石炭が玄洋社の資金源になっていたと聞いています」

繰り返すまでもなく、玄洋社は頭山満らが結成した日本の右翼団体のルーツである。明治維新後、西郷隆盛や板垣退助に私淑した右翼の巨魁、頭山は、西南の役における西郷の死を獄中で知り、衝撃を受けたとされる。

山崎和三郎は玄洋社の幹部社員として石炭利権を支えただけでなく、1892(明治25)年5月、読売新聞主筆から衆議院議員に転じた高田早苗を仕込み杖で襲い、警察に出頭する。

頭山満(1855~1944) 写真/アフロ
頭山満(1855~1944) 写真/アフロ

「玄洋社の来島恒喜が大隈重信を襲って自害したあと、私の祖父山崎和三郎が高田早苗を襲ったのです。高田は大隈が早大の初代総長になったときの学長で、そのあと高田が三代目総長になりました。

高田は(第二次)大隈内閣で文部大臣に起用されたほどで、二人はいわゆる兄弟分でした。同じように玄洋社の来島恒喜と山崎和三郎も兄弟分でしたから、祖父さんは高田を襲ったのでしょう」

高田襲撃は明治維新後の動乱の事件であり、山崎和三郎は物騒なテロリストとして後世にその名を刻んだ。高田は大隈の率いる立憲改進党(のちの進歩党)の国会議員であった。だが、改進党は維新後に自由民権運動を唱えた自由党の板垣退助とたびたび対立していた。そこでこのような事件に発展したのであろう。

もとより自民党はまだ影も形もないが、自由党は今の自民党の源流といわれる。玄洋社の頭山が西郷や板垣に心服していたのは先に書いたとおりで、この頃の政党には明治維新や玄洋社の尊王、右翼思想も息づいていた。

1936年生まれの山崎はむろん、祖父たちの引き起こした事件についてあとから見聞きしただけにすぎない。その実、本人はのちに自民党という日本の政党政治の中核に座るようになる。明治の古い出来事もまた自民党をさかのぼるうえで不可欠な要素といえる。少なくとも山崎の目にはそう映っていると感じた。

右翼団体の玄洋社が石炭利権で潤う一方、山崎の母方の祖父山口家もまた繁栄した。炭鉱王だった山口慶八の邸宅は福岡市内の古小烏というところに所在し6000坪の敷地に建ち、延べ床面積が300坪もあった。

孫は大連生まれだが、拓という名の由来は「福岡県柳川市開村に着炭した日に生まれたこと」に由来するといい、両親とともに中国から引き揚げてきたあとはここで育っている。屋敷の母屋はのちに九州電力が買い取って高級料亭さながらの接待施設に使ってきたという。

山崎の実父である進は1908年8月に生まれ、東大経済学部に進んで炭鉱経営のあとを継いだ。そこから転じて経済学者となるのだが、山崎は実父の進について、右翼の和三郎とは真逆の思想の持ち主だったと振り返る。

「つまり私は玄洋社の資金源であった炭鉱屋のあとを継いだ両親のあいだに生まれたわけですが、父は左翼系でした。祖父が筑豊で飯塚炭鉱を経営し、父は地元の嘉穂中学に通って旧制一高を経て東大に入っています。

嘉穂中から一高、東大に行ったのは珍しい。父の嘉穂中時代の友人が元経団連副会長の花村仁八郎さんでした。父は東大経済学部で有澤廣巳教授のゼミに所属し、弟子になってマルクス・エンゲルスを学んだ口でした。それで(商社の東洋棉花を経て1936年4月に)南満洲鉄道に入社したのです。

マル経学生だから左翼運動をやって警察につかまったりしたので、有澤教授が満鉄に避難させたらしい。あの頃の満鉄調査部にはそうした左翼系の共産主義者学生が多く、父も官憲から免れるために逃げ込んだのでしょう。

そして父は満鉄調査部の大連支局から上海支局に転じて、戦後に引き揚げてきて炭鉱経営に加わったわけです。母方の杵島炭鉱や小城炭鉱、父方の飯塚炭鉱は合わせると麻生炭鉱よりずっと大きかった」

周知のように花村仁八郎も山崎進と同じ1908年の3月に福岡県飯塚市に生まれ、嘉穂中から山口高校(いずれも旧制)、東大経済学部に進んだ。

福岡少年院教官から戦中に企業の雇用問題を扱う重要産業協議会に入り、ここが終戦後の1946年8月に日本商工経済会や日本経済連盟会などを統合して経済団体連合会(経団連)となる。2002年5月に経団連に日本経営者団体連盟(日経連)が加わり、現在の形になる。

経団連会長が財界総理と異名をとり、自民党と密接につながってきたのは言うまでもない。なかでも花村は1954年の造船疑獄事件を機に、自民党に対する個別の企業献金を廃止し、団体献金に改めた〝功労者〟とされる。経団連では事務総長と副会長を兼務し、「財界総理」と称されるようになり、日本航空会長に招聘された財界人だ。

なお山崎の言った麻生炭鉱とは、飯塚にあった麻生太郎の実父である麻生太賀吉が経営した石炭鉱山であり、こちらも麻生コンツェルンの要となった。犬猿の仲とされる山崎と麻生のライバル関係は、こうした二人の生い立ちが影を落としているのかもしれない。

もっとも周知のように九州の石炭事業は1950年代半ば以降、斜陽産業となって炭鉱も次々と廃鉱の憂き目に遭う。すると山崎進は炭鉱経営を離れ、1955年に民間の日本生産性本部が設立されると参事になり、1960年1月には消費者教育室初代室長に就任した。

進は恩師の有澤とともに渡米し、生産性本部の経済学者として政府の経済政策にかかわっていく。経済界、労働界、学識者から構成される生産性本部はのちに公益財団法人に改組されるが、設立当初から政府と連携して終戦後の高度経済復興のために活動してきた。

そして進の息子の拓が政治を志して自民党入りした。山崎が自民党で存在感を示すようになったのも、こうした生い立ちと無縁ではあるまい。

保革が相対した55年体制の高度経済成長を経てバブル景気を経験した日本社会は目下、長い成熟期に入っているといわれる。そんな現在の国の形をつくった自民党政治は、田中角栄と中曽根康弘という二人の稀有な政治家抜きには語れない。

よくも悪くも今なお日本社会は田中や中曽根時代の政治を引きずっていると言い換えてもいい。中曽根派の自民党議員だった山崎は、自らの体験が今の政治状況に通じると次のように語った。

「私の父の一高東大時代の同級生には、橋本龍太郎さんの父親である橋本龍伍さんや齋藤邦吉さんもいました。二人とも非常に勉強ができ、1番、2番の成績を競っていたそうです。

齋藤邦吉さんは自民党幹事長になり、足が悪くて運動ができなかった橋本龍伍さんは厚生大臣を務めました。それで、息子の龍太郎さんも厚生大臣をやったんです。龍太郎さんが大臣のとき親父同士が同級生っていうことで、私を政務次官にしてくれました。

橋本龍太郎さんは私より一つ歳下ですけれど、1963年11月に26歳で初当選していますから、私が当選1回目のときはすでに5回生でした。私の初当選時、彼はボーイスカウト議員連盟の会長でした。お父さんがボーイスカウト運動を支援していて、息子が個人主義者にならないようにそこに入れたそうです。

で、私はボーイスカウト議連の事務局長になってくれと頼まれたので、それ以来私もボーイスカウトにかかわるようになりました。それから彼が自民党総裁になった1995年9月に私は政調会長になり、幹事長が加藤紘一。翌96年1月からスタートした橋本政権では3年間ずっと党役員のその顔ぶれは変わらなかった。それは父親同士の関係でもあったわけです」