前提は何か
しかし、例えば、仕事の「質」はどうでしょうか。本人はなかなか気づけないものですが、病前病後変わらずお付き合いくださるクライアントは口ぐちに、「今のほうがいいですよ」と言ってくださる。お世辞かもしれないですけど。ただ、自分としても今の自分のやり方に、しっくりきています。
私なりに考察するに、病気をする前までの私は、すでに組織開発に従事していたものの、どこかまだ自分への過信もあったように思います。
頑張っても避けられないことや、頑張ってもどうしたってできないことがあることを、腹の底から理解はしていなかったのかもしれません。自分が「高い能力」の要請という、ストライクゾーンの狭い、他者評価のものさしを当てられてつらい立場になってみて初めて、感じていることかもしれません。
また別の角度から考えると、お金のもらいは減るのかもしれませんが、もらいが爆増しているといえるものもあることに気づきます—月並みな表現ですが、他者からの支えです。
毎週毎週、手づくりごはんをうちまで運んでくれる友人。「暑い」とSNSに書けば、ゼリー状栄養剤やらを即Amazon から送ってくれる友人。就労時間以外にも「療養するためにぜひ」と申請などの手間もなしに、独自の運用でわが子を預かってくれた保育園の先生方。初作のきっかけとなった、文化人類学者の磯野真穂先生の寄り添い……挙げ切れず申し訳ありませんが、失ったのは体力と仕事時間の一部だけで、他はいわば得ることばかりだったのです。
できる・できないなんて超えて、どんな状態でも私を受け止めてくれる他者への感謝と慈しみが増す経験は、恥ずかしながら、私にとってはこの闘病が初めてでした。
ヤングも、前掲書の「第七章 金持ちと貧乏人」の中の項で「メリットと金」を書いているとおり、報酬は「お金」に限定しています。
しかし、真に、もらいの多寡とできる・できないの関係について考えるならば、もらいはもらいでも、「何をもらう(受け取る)のか」ということも、問い尽くされる必要があると思うのです。
能力というものがあって、高いほど多くをもらえる前提。その上で昨今の風潮で言えば、「みんな能力を高めなよ。お金が足りないなら『無料塾』を開こうか*1?」—これも立派な話なのですが、能力が高く、それによってお金を多く所有することがすべてではないのです。
つまり、能力主義の牙城を切り崩そうにも、人が人を「選べる」のだという発想や、皆でやっている仕事の「成果」を急に個人単位で「評価」したり、もらい(所有)が多いほうがいいに決まっている前提—でいる限り、見果てぬ夢だと思えてなりません。
文/勅使川原真衣













