「できる・できない」「もらいが多い・少ない」が問題なのか?
できる人はもらいが多く、できない人はもらいが少ない—という「能力主義」的な原理を、教育社会学は、分配原理として不平等だと指摘してきました。さらに私は、それを「不平等」だと指摘する時点で、隠れた所与の前提があるように思っています。
何かというと、「でき」による配分を問題視するというのは、皮肉なようですが、「少ないより、多くもらえたほうがいいに決まってるよね?」という素朴な大前提の上にあるからです。
意外に思うかもしれませんが、「できる・できないは、本人の努力だけじゃないのに、それでもらいの多寡が決まるなんて、不平等だ」—この主張は、できる・できない、もらいの多・少ともに、前者が優、後者は劣と二項対立的に置いて初めて成り立ちます。
いわば、「できがよく、多くをもらえたほうがいいに決まってる」前提なのです。
いざはっきりそう言われると……皆さん納得できるでしょうか。
同様に、次のことばも実は、曰くつきだと踏んでいます。
何度か出してきていますが、「格差」ということばです。このワーディングだからこそ社会で広く問題視された面も多分にあるわけですが、どうも妙な感じがしてくるのです—経済的、社会的資本の配分が異なることは、「格」の「違い」なのか? と。
「多いものが格上で、少ないものは格下。ほんと格差ってよくないですよね」というのは、やさしい響きでありながら、「格」を問題として「設定」する側のある種の危うさが透けて見えないでしょうか。
自身を振り返るに、先の論への違和感が拭えないのです。例えば私事ですが、2022年夏、38歳のときに進行性の乳がんが見つかりました。以来治療が続いていますが、やっぱりがん治療というのは、そう楽なものではありません。
もともと我慢強いほうだと自負してはいますが、それでも吐き気や下痢、身体の痛みなどなど……寝るのも地獄、起きているのも地獄、という状態もあります。
そんなですから、颯爽と歩くとか、もはや無縁。つまり、できる・できないで言ったら、私はできないことが多い人と言ってもよいでしょう。
能力じゃなくて、「ルッキズム」で考えても同じです。体重は減少しているのに、薬の副作用でパンパンに膨らんだ、髪はおろか、まつげも一本たりともない妙に淡泊な顔をした自分は、「美しい・美しくない」などで取り分が決まるとしたら、もらいは少ないと思われます。
しかし、この「できがよく、多くをもらえたほうがいいに決まってる」という前提は、大事なことを見落としていると言わざるを得ない。
私で言えば、確かに病前より体力もなく、免疫抑制が副作用としてある分子標的薬を飲んでいるため、感染症にもかかりやすい。
仕事「量」でいったら、かつてより減っている。仕事をこなす量が減っているのなら、もらいも少ないのが「能力主義」的配分です。
貨幣経済社会において、働きが少ない人はお金の入りも減って当然なのです。













