容赦なく捨てられた老臣
佐久間信盛父子に続いて筆頭家老の林秀貞も、25年近く前に造反したことを理由に織田信長から所領を奪われ、追放された。
石山本願寺が陥落して畿内が平定され、「狡兎死して走狗烹らる」の故事のごとく、利用価値のなくなった老臣たちは、容赦なく捨て去られたのである。
この過酷な処分の背景には、信長の政策の変更もあったようだ。ちょうどこの時期から、信長は一門衆や側近を畿内近国に配置し、柴田勝家、羽柴秀吉などを敵地に隣接する遠地に移封している。使える重臣は最前線で戦わせ、いらない重臣は切り捨てようとしたのかもしれない。
信長は天正10年(1582)3月に武田氏を滅亡させたが、伊勢(現在の三重県)の滝川一益も上野の厩橋城(前橋市)に入れている。そして2カ月後、明智光秀は秀吉の中国平定の援軍を命じられたが、このおり「中国地方はお前の切り取り次第(攻め取った土地を自身の領地にすること)なので、元の領地である丹波国(現在の京都府中部、兵庫県北東部)と近江国(現在の滋賀県)の一部は没収する」と、信長から伝えられたという説がある。
これが超合理主義者の信長のやり方であり、そのため、失領のショックを受けた光秀によって信長は謀殺されたのかもしれない。あくまで想像だが……。













