死刑に等しい仕打ち
ただ、取り立てるのは良いことだが、織田信長のコワさは、実力のない者や用をなさなくなった部下には、容赦なく降格させたことだ。それは宿老であっても例外ではない。
天正8年(1580)、11年続いた石山本願寺との戦い(石山戦争)が和睦というかたちで終結した。同年、信長は本願寺跡(現在の大阪城公園内)を訪れることになった。このとき、本願寺攻めの総指揮官だった佐久間信盛は、主君を迎える準備を居城の天王寺城(大阪市天王寺区)で整えた。
しかし信長は天王寺城に現れず、使者が信長の書状を信盛のもとにもたらした。そこに記されていたのは、なんと19条にも及ぶ信盛・信栄親子への折檻状(𠮟りの手紙)だった。
次に、主な条文を要約する。
「お前たちは、5年も天王寺城にいる間、一つも良い働きをしなかった。石山本願寺を大敵と恐れて武力も策略も用いず、ただ寺を包囲して数年過ごしていれば、敵は坊主のことだから、やがて信長の威光を恐れ退去すると考えたのか。勝機を見定めて一戦もせず、このように持久戦に持ち込んだことは、まったく分別のない行動だ。
明智光秀や羽柴秀吉の活躍は見事である。彼らの活躍を聞いてお前たちも発奮して、ひとかどの働きをすべきだったのだ。柴田勝家は秀吉や光秀の活躍を知り、北陸で頑張っているのだぞ。
武力がふがいないのであれば調略(巧妙な交渉や策略)に励み、それもうまくいかなければ俺の意見を聞くなりすべきなのに、5年の間一度でもそれがあったか。お前たちには、7カ国もの与力の者(加勢する武将)たちをつけたのだ。それに自分の家臣団を加えたら、どんな戦いでも負けることなどなかったはずだ」
このように、信盛・信栄父子の怠慢を手厳しく追及し、「お前たちは、けちくさく金ばかり貯め込み、新しい家臣を召し抱えようとしない」と非難し、さらに筆はエスカレートしてゆく。
「かつて三方ヶ原の戦いで、家康の援軍にお前と平手汎秀を遣わしたところ、武田軍を前に平手を見殺しにして逃げ帰ったうえ平気な顔をしていた。越前の朝倉氏と戦った際、お前の非を責めたところ、恐縮せずに言い訳をし、座を蹴って退出した。このような行為は前代未聞だ!」
と、遠い過去のことをほじくり返し、さらに、「信栄のことも、書き並べることができないほどだが、おおまかに言えば、この者も第一に欲が深く、気難しく、良い人材を抱えず、そのうえ油断していると取り沙汰されている。つまり父子ともども、武士道が足りていないから、こんなことになるのだ」
と、さんざん愚弄したうえ、だめ押しに「お前が俺に仕えた30年間、優れた働きなど一度もなかった」と言い切ったのだ。













