織田信長の恐怖の人事

もし豊臣秀吉が織田信長の家臣になっていなければ、秀吉が天下人になることはなかった。そう断言できる。

信長の型破りな抜擢が、出自が農民(諸説あり)の秀吉を天下人にまで押し上げたのである。おそらく秀吉のような有能な家来は、どの大名家にもいただろう。

しかし、いくら主君がお気に入りだからといっても、序列を大きく超えて重臣たちをごぼう抜きにしてまで栄達させるのは、ためらいがあったはず。

もちろん、三好長慶が配下の松永久秀に対して行った“抜擢人事”など、過去に例がなかったわけではない。それにしても、信長はよくぞ秀吉を長浜城主に据えたものだ。

桶狭間戦場の織田信長像(写真/shutterstock)
桶狭間戦場の織田信長像(写真/shutterstock)
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織田家が強大になれた理由の一つは、信長が実力主義を重んじ、身分や門閥にかかわらず積極的に異能者を取り立てたことだと思う。それは秀吉だけではない。明智光秀は牢人だったうえに、室町幕府第十五代将軍・足利義昭の家臣でもあった。

なのに光秀の名が一次史料(当時の手紙や日記、公文書など)に登場してわずか数年後、信長は近江坂本城(大津市)を光秀に築かせ、城主としているのだ。また、のちに関東の支配を託す滝川一益は、伊賀(三重県)か甲賀(滋賀県)の「忍び」出身だといわれている。