人をケアするとはどういうことか
青木 今回の僕のルポルタージュは、ほんのわずかな爪痕にすぎないかもしれませんが、そうおっしゃっていただけると多少は苦労の甲斐があったかと励まされます。と同時に、ひとりでも多くの方に読んでいただき、長く深い視野で原発事故が破壊したものの尊さを考えてもらいたいとも思うんです。
ところで先ほど優子さんは、フェミニズム運動に関わる方々がコモンズに共感を深めはじめた、とおっしゃいました。僕自身、完全に男社会だった時代のマスメディア企業にどっぷりと浸って生きてきた身ですから、ジェンダー問題やフェミニズム運動について偉そうなことを語る資格はないのですが、そのあたりをもう少しお話していただけませんか。
田中 ジェンダーの問題については、石牟礼道子さんも気がついていて、共同体的な生活がすごく大事だと思う一方で、その中で女性がどういう目に遭ったかというのも身に染みて知っているわけです。彼女自身お嫁に行って水くみから野良仕事、日々の家族の賄まで全部やらされる。
物を書くのも夜中になって狭いところで遠慮しながら書くしかない。そういう生活をしながらも、共同体で暮らしていくことがすごく大事だったと言っています。今、フェミニストたちの間で起こっているのが、「ケア」という言葉なんですよ。
青木 ケア、ですか。
田中 そう。昔あったコミュニティを取り戻そうと言っても、かつての時代は、石牟礼さんのように育児や介護、家事全般を女性が全部無償でやっていた。では、その時代に帰るのかという話になってしまう。でも、そうじゃないんです。また、外部に託して介護の専門家を雇えばいいという単純な話でもない。つまり、こういう仕事を貨幣経済の中で処理するのはやめようという話なんです。
人をケアするってどういうことなのか。この根本のところから考え始めているフェミニストたちがいる。
人間が人間をケアするのは共同体の中ですごく自然で当たり前のことだから、それをジェンダーで分けていること自体がおかしいと。ケアそのものを考え直そうということなんです。これはもう本当に入会地と同じ話で、共同で何かをしていく。人間はみんな弱く、老いていくのだから、その弱さをケアし合うという、そういう社会のイメージ。そういうイメージはもう持っているんですよ。
青木 社会全体としてみたならば、年金や医療といった社会保障制度がまさにそうですね。これも大切な社会的共通資本でありコモンであり、市場経済などに断じて委ねるべきではない。そしてそれを持続可能な形で、しかも性差などを超えて、小さな共同体レベルでも構築し直していこうと。
田中 そうです。おっしゃる通り、それを貨幣経済の中に置かないのが最も肝心です。お金を渡したからいいでしょうみたいな話ではない。人間関係を取り戻す話なんですよ。近代の貨幣経済の中で、何か非常に大きなものを私たちは失ったという前提があって、それは共同体の中でつくられてきたものだと思うんです。
しかし、そこには女性を酷使するという欠点もあったわけだから、その欠点をどう克服して新しいコミュニティを作っていくのか。まだイメージの段階だと思います。いろんな方がいろんなことを言っているけど、じゃあ、どこで実現しているのかというと、なかなかないですよね。
青木 でも、僕が今作で描いた大久保文雄さんの一家は、意外とそれに近いような面があったようにも思います。明治生まれの文雄さんは、封建的な家父長の気配が極めて薄く、農作業に日々汗を流しつつ、家庭内でもふんぞりかえることがまったくなかったそうです。街場の家から嫁いできた美江子さんにも常に穏やかに接し、美江子さんが雑用を頼んでも「あいよっ」と言って快く引き受け、すぐに動いてくれるような義父だったと。
詰まるところ、制度やシステムはもちろん重要だけれど、それを支える個々の姿勢や態度も問われてきますね。その点、文雄さんは世代のわりに心根が優しく、根っからのヒューマニストだったのでしょう。
田中 でも、農家ってそうだったと思うんですよ。自然を相手にするからお互いにやりくりしながらやらないといけないし、誰がどの役割なんて言ってられないわけです。子どもを育てるのも、手のあいている人が育てているし、留守なら隣に預けているし、みんなそういうふうにコミュニティの中で助け合ってやりくりしてきたんです。その感覚が文雄さんには残っているんじゃないかなと思いながら読みましたね。














