2025年秋、飯舘村の入り口近くに立っている「日本で最も美しい村」の看板。(撮影/青木理)
2025年秋、飯舘村の入り口近くに立っている「日本で最も美しい村」の看板。(撮影/青木理)
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「この風景は私」という世界観

青木 食の話をさらに伺いたいと思います。今作を書くためにこの10年、飯舘村に通い、主人公ともいえる大久保文雄さんの取材を進めるうち、その家族以外にも友人と呼ぶべき村人が幾人もできました。なかには村のさらに奥深い山中で暮らす老人がいて、「全村避難」を指示されて一時は仮設住宅暮らしを強いられたものの、指示が解除されるとすぐに自宅に戻って息子さんらとの生活を再開していました。

やはり農業で代々生計を立ててきたというその老人は、一見無愛想なのですが、一面でとても人懐っこくて、取材で話を聞くうちに意気投合し、自宅に泊めてもらってバーベキューパーティーをやるほど親しくなりました。そこで食べた山菜は味が濃厚で絶品でしたし、近隣に自生している山椒の実も老人が清流で育てたワサビも、あるいは天然のキノコ類も、これ以上の贅沢があろうかというほど美味かったんです。

ただ、飯舘村はいまだ放射線量の高い場所も多く、除染されていない山中の山菜やキノコ類は危険性が伴います。老人は自力で線量を測っているから大丈夫だというんですが、果たしてどれほど精緻に測っているのか、僕は問いただすこともできませんでしたし、問いただそうとも思えませんでした。

藤原 その人の話、本にも関心をもって書かれていましたね。

青木 ええ。なぜ記したかといえば、原発事故によって壊されてしまった村の「豊かさ」をあらためて紹介したかったことに加え、食というものの本質がそこにあるようにも感じたからです。老人はすでに70歳を優に超えていて、「こんな山の中で長年暮らしてきた俺が街場のアパートに暮らせるわけがねえだろ」と言う。そして彼は、その故郷がもたらす恵みを食べて70年余の人生を営んでもきた。だから避難指示が解除されるとすぐに戻り、ほぼ従前通りの生活を営んでいるにすぎない。

それを上から目線で「線量をきちんと測ってるのか」とか「危険だからやめた方がいい」などと言うことは、僕にはできなかったし、するべきでもないと思いました。ましてや取材者というより友人として、あるいは客人としてもてなされ、しかも都市生活者として原発を押しつけてきた側でもある僕に、果たしてそんなことを言う資格があるのか、とも感じました。

もちろん彼自身もそんなことは十分承知していて、仮に僕がもっと若年だったなら、山菜もキノコもワサビも無理に勧めることはなかったでしょう。こうした老人の生き様というか、故郷の実りとともに暮らすことにこだわる生活をどうお考えですか。

ジャーナリストの青木理氏 (撮影/三好祐司)
ジャーナリストの青木理氏 (撮影/三好祐司)

藤原 食とは何かというテーマにずっと振り回されてきた人間としては、重要なところだと思います。その人の食への哲学的ともいうべき姿勢には、頭が活性化する思いがしました。近代科学的にいえば、キノコが放射性物質を吸いやすいとか、山林土壌の中に蓄積した汚染物質の影響とか、調べることはたくさんあるでしょう。でも、そうしたことをさして気にせず食べているのは、たぶん、そのおじいちゃんたちが、それを問わなくていいレベルの話にしているからですよ。このことは端的に食べものの本質を表していると思います。

青木 食べものの本質……。どういうことですか。

藤原 何かと近代批判ばかりになってしまいますが、食文化にもたらした非常に大きな爆弾のひとつが栄養学です。何を摂取すれば体に効くのか、これを食べれば長生きするといった栄養分析ですね。20世紀初頭にヨーグルトブームがありましたが、これは、ロシアのノーベル賞学者イリヤ・メチニコフの「ロシアのコーカサス地方に長寿が多いのは、ヨーグルトを毎日食べているからだ」という説が発端になっている。ヨーグルトがおいしいからではなく、体にいい、長生きできるから食べると。このように、食を機能的なものとして捉えるようになったのは、栄養学の間違った進み方だったと思うんです。

どういうことかといえば、こう食べればこうなるというその機能に、食べものの本質があるのではない、ということです。私たちは、本来的には地球という大地の養分を吸い取った植物を、あるいはそうした植物を養分に育った動物や魚など食べているだけなんです。この地球上にある物質でしか私たちは成り立っていない。食べ物はあくまでその媒体であって、本質は地球の大地と私の関係にあるという考え方。

山暮らしのおじいさんも、亡くなった文雄さんも、飯舘で暮らす美枝子さんも、間違いなくその世界観の中で暮らしてきたと思います。誤解を恐れずに言えば、「この風景は私」なんです。この土地を何百万で買ったというレベルの話ではなく、その土地が自分たちの体と切り離せない一部になっているという世界観です。

青木 栄養学的に優れているから食べる、という発想ではなく、生まれ育った地の山や川や海に自生するものを、あるいはそれぞれの地の気候風土に即して手がけた田畑などで収穫できたものを食べて暮らす、藤原さんの言葉を借りれば目の前の「風景」から現れてきたものを喰らって生きると、それが本来は当たり前のことだったと。