「中道」を掲げるならその定義を広げたらどうか
とりあえず今後も中道は存続するようだ。もし「中道」という概念を大切にしたいのであれば、その定義をもっと広げる必要があると思う。
例えば、ドイツには「キリスト教民主同盟(CDU)」という政党がある。彼らはキリスト教の価値観をベースにしながらも、保守的な層から中道、そして労働者層まで、幅広い人々を包摂する巨大な国民政党だ。
日本の「中道」も、こうしたものを目指すべきではないだろうか。
現在の枠組みは、旧立憲民主党と旧公明党の合併という形だが、それだけでは足りない。世の中に存在するさまざまな仏教勢力、あるいは宗教的なバックボーンを持つ人々、さらにはリベラルにアレルギーを持つ保守的な仏教勢力までも取り込んでいく。
「右でも左でもない」ではなく、「右も左も包み込む」ような、大きな器としての「中道」。
そこまで懐を深くして初めて、宗教アレルギーやリベラルアレルギーといった壁を乗り越えることができるのではないか。
公明党の歩みを振り返れば、現実に即した柔軟な対応をしてきた歴史がある。
現場の人々は、やるべきことをやった
昨年は減税を強く主張して実現させた。リベラルと言われながらも、安全保障法制や辺野古移転、原発再稼働といった問題では、現実的な判断を下し、政権与党の一翼として責任を果たしてきた。理想を掲げつつも、現実の泥にまみれることを厭わない。その姿勢こそが、公明党の強みだったはずだ。
今回の選挙戦で、学会員たちが流した汗は嘘ではないだろう。大家さんが見せた必死さは、政治への誠実さそのものだ。だからこそ、その努力が報われない今の状況には、私も「複雑な思い」を抱かずにはいられない。
現場の人々は、やるべきことをやった。だとしたら、次は指導者たちが応える番だ。
「高市ではないから」という消極的な理由ではなく、人々が積極的に選びたくなるような、新しい「中道」の姿を示せるかどうか。
敗北は終わりではない。それは、自分たちが何者であるかを問い直す、最も貴重な機会でもある。
静かに、しかし確実に変化し続ける時代の波の中で、公明党という組織が次にどの方向へ舵を切るのか。もう一度、足元を見つめ直す時が来ている。













