「野暮ったい器」が輝くとき
アメリカ留学中に日本の伝統工藝品に注目した当初から、僕はモダンなデザインを取り入れたものや、あるいは一目見ればその職人技のすごさが伝わるような超絶技巧の工藝品にとにかく惹かれた。
例を挙げるなら、繊細なガラスカットや色被せの技術が映える江戸切きり子こなどだ。
一方で「焼物」、特に備前焼や瀬戸焼の一部に見られる、一見すると質素なつくりの焼物は、いま思うと恥ずかしい限りだが「時代遅れで野暮ったいし、地味だし、こういうものだけは扱わないぞ!」と決めていた。
当時はそうした工藝品の良さが全くといっていいほどわからず、海外の人々にとってもそうだろうし、ライフスタイルの西洋化が進んだ日本の若者にもわかるわけがない、と思っていたのだ。
いまでは僕たちの会社は、こうした焼物が秘めた魅力をしっかりと伝えられるようにしている。そうなったきっかけは、愛知県瀬戸市洞地区にある窯元「瀬戸本業窯」を訪ねたことだった。
ここは江戸時代後期から約250年も続く窯元で、民藝の思想に基づき、いまも手しごとで実用陶器を作り続けている(「本業窯」とは、瀬戸で江戸後期から盛んになった磁器に対し、それ以前から作られていた陶器を作る窯を指す)。柳宗悦(1889~1961年)とも交流があり、民藝の思想を体現している場所ともいえる。
このとき僕は畏れ多くも「どうしてこの産地の器はこんなに野暮ったくて地味なんですか?」という意味の質問をしてしまった。失礼だとは知りつつ、そこに自分がまだ気づいていない何かがあるように思えて、どうしてもそれを知りたくなったのだ。
質問した相手の方はそんな不躾な質問も受け止めてくれたうえで「それは『調和』という考え方があるんじゃないかなぁ」と答えてくれた。
例えばその品だけで輝いて見える、洗練され、研ぎ澄まされた器や、繊細かつ壮麗な絵柄がつけてある器というのは、確かに美しい。
ただ、そうしたものの上に魚や野菜などの料理をのせたとき美味しそうに見えるかというと、必ずしもそうではないだろう。やはりそうした場面では、盛られる料理と調和する器こそが、その良さを発揮する。結局、本来、器とは料理を盛るための道具であって、その料理の良さを引き出せることがこうした器の良いところなのだ、というお話だった。













