事実が私を鍛える
青木 死者の導き、ですか。そうかもしれませんし、同時に僕は、この業界の先達の言葉を思い出したりもします。かつて僕が属した通信社に斎藤茂男さんという大先輩がいました。『父よ母よ!』とか『わが亡きあとに洪水がきたれ!』といった名作ルポを書いた敏腕記者でしたが、その斎藤さんの言葉に「事実が私を鍛える」というフレーズがあるんです。
藤原 なるほど。新聞記者らしい言葉ですが、青木さんはどう解釈しています?
青木 組織記者だろうがフリーランスの記者だろうが、ある事象の取材にとりかかる際は、あらかじめ一定の仮説を立てて現場に赴くわけです。これはこういうことじゃないかとか、こういうことなんだろうな、などと想像をめぐらせつつ取材に着手する。それは時に“先入観”へと転化しかねない危険性を孕みますが、それなりの問題意識に基づく仮説を立てて取材を開始すること自体は珍しくもないし、むしろそれは取材にとりかかるモチベーションにもなるわけですからね。
ただし斎藤さんは、その仮説通りの成果しか得られないような取材なら、それは十分に取材を尽くしていない証左だ、というんですね。そうではなく、事前に立てた仮説が木っ端微塵に打ち砕かれるような、仮説がいかに陳腐だったかを思い知らされるような結果に突き当たることこそが本当の取材なんだと、そんな趣旨のことを生前に指摘している。すなわち「事実が私を鍛える」のだと。
藤原 なるほど。でも事実が青木さんを鍛えるというより、事実が襲いかかってくるような本になっています(笑)。
青木 そうかもしれません。最初は震災と原発事故の巨大さにたじろぎ、何をどう書けばいいのか頭を抱えていた僕が、102歳の古老が自死した事実に衝撃を受け、いったい何があったのかを知ろうと取材にとりかかった。そして飯舘村に通い詰めるうち、その村や村人たちの古(いにしえ)からの営みに触れ、藤原さんが指摘されたような近代の矛盾にも気づかされた。しかも硫黄島のエピソードに行き当たり、さらには取材対象との距離も縮み、信頼を得て、思いもよらぬ事実にも出くわすことになりました。
これも詳しくは今作を読んでいただきたいのですが、“霊能者からのメッセージ”はそのひとつかもしれません。大久保家に嫁いできた美江子さんは、じいちゃんと呼んで慕っていた義父・文雄さんの死に衝撃を受け、じいちゃんの異変に気づけなかった自らの責任に煩悶を抱きつづけていました。ところがある時、“霊能者”から委ねられたという“文雄じいちゃんのメッセージ”を僕に見せてくれたんです。取材をはじめて何年も経ってからのことでした。
藤原 ああ、そうだったんですか。あの手紙には僕、感涙しました。文雄おじいちゃんの言葉を口移ししたようなあの慈愛に満ちた内容は、誰かの作為ではなく、文雄さんや美江子さんたちが生きてきた場所から沸き起こっているような気がして。
青木 もちろん美江子さん自身、霊能者などというものを信じているわけではないんです。ただ、それを読むと心が癒されるというんですね。だから大事にしていて、気持ちが辛くなった時に読んでいると。じいちゃんの異変に気づけなかった自分の責任を、取り返しようもない自責と後悔の念に苛まれた時、それを読むと心が束の間落ち着くのだと。これを誰が書いたのかも今作でなぞ解きしていますが、何年も経ってからようやくそれを明かしてくれたのは、長く取材していたからこそなのかな、と思ったりもします。
藤原 そんなふうに心を開いてくれたのは、青木さんの取材のおかげだと思いますよ。1回聞いてさようならではない。2回聞いてさようならでもなくて、取りあえず通い続けると。そういう生身の触れ合いが心を解きほぐしていくんです。で、実はあまり見せたくなかったり、あるいは隠しておきたかったものを、「もしよかったら……」と提供してくれる。またそれが思いもよらない事実にめぐり合わせてくれることになる。まさに「事実が私を鍛える」ですね。














