手紙の返事をくれたのは「日本人女性」だったから
──青木さんは、チャップマンに会った唯一の日本人だと伺いました。取材を始めたのは事件が起きた直後の1981年。以来、40年以上をかけてこの事件を追い続けてきました。
私はビートルズの第一世代なんです。『プリーズ・プリーズ・ミー』をラジオで初めて聴いたのは中学3年生、1963年の頃だったと思います。
聴いた瞬間、「なんだこれは?」と思って。それまでの音楽と全然違ったんです。ビートルズの音楽って、当時の若者を解き放ったんです。だからみんなが熱狂したし、だからこそ、ジョン・レノンが撃たれたあの事件はショックでした。
あのニュースをどこでどう聞いたか、私たちの世代はみんな言えるんじゃないでしょうか。私もはっきり覚えています。
──1984年渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長をつとめますが、事件当時はまだ、日本で仕事をされていたんですね。
そうです。30歳を前に、それまで働いていた音楽専門誌の「Gutsガッツ」や「週刊プレイボーイ」などの仕事をほとんどやめて、自分の本を書こうと模索していた頃です。
ニュースの数週間後には東京からハワイに飛びました。チャップマンの妻がハワイに住む日系人だと知って、話を聞いてみたいと思ったんです。
──単身で妻に会いに行った。その行動力、取材力で、さまざまな壁を突破していきます。
でも、このときは、妻のグローリアに会うことはできませんでした。ただその後、お父さんから丁寧な手紙をいただいたんです。そこに、グローリアの日本名が「洋子」だと書かれていて驚きました。
オノ・ヨーコ(小野洋子)さんと同じじゃないか、「ふたりの洋子」という本が書けるんじゃないかとひらめいたんですね。後で、読み方が違うことがわかって、そのテーマでは書けないと諦めるのですが。
──その後、チャップマン被告の判決公判の傍聴にも行き、刑務所に手紙を送ってインタビューを申し込みます。そこから手紙のやりとりが始まるんですね。
当時、チャップマンにはたくさんの手紙が届いていたそうです。脅迫状からファンレターまで、世界中から。その中から、私の手紙をピックアップして返事をくれたのは、これは私の想像ですが、私が日本人女性だったから、興味があったんじゃないかと思います。
誰も指摘してこなかったことですが、この事件には「日本人」とのつながりが何かあると私は感じました。
──ジョン・レノンとオノ・ヨーコさん、チャンプマンと日系人の妻・グローリアさん、ジョン・レノンの取材経験もありレノンと親交のあった米国の著名作家ピート・ハミル氏と結婚した青木さん。「日本」と米国、英国に関わりのある3人の女性の運命をたどることで、事件の輪郭が明らかになっていきます。













