初来日は、東京ドームで10回連続公演
1966年のビートルズ来日を契機にして、日本には数多くのロックバンドが来日を果たした。そして最後にして最大の大物と言われたのが、ローリング・ストーンズだった。
決して機会がなかったわけではない。
1973年には5回の武道館ライブが計画されて、横尾忠則が書いたポスタ―とともにチケットまで発売になった。
だが、日本政府が麻薬関連での逮捕歴を理由に、メンバーの入国を認めなかったため、来日公演は幻に終わってしまった。
待望の来日が実現したのはそれから16年後、1990年のことだ。ストーンズが3年ぶりのアルバム『Steel Wheels』をリリースすると、そのツアーに東京が組み込まれた。
![80年代中頃から続いていたミック・ジャガーとキース・リチャーズの不仲が解消し、1989年に発売された『Steel Wheels』。写真は『スティール・ホイールズ・ライヴ [SD Blu-ray][2SHM-CD]』(2020年9月25日発売、Universal Music)のジャケット写真](https://shuon.ismcdn.jp/mwimgs/9/9/500mw/img_9976a64344ed94579705fe61eb9355ee423866.png)
当時の日本はまさにバブル全盛期で、5万人の収容人数を誇る東京ドームでの10回連続公演は、ファンの数からしたら無謀とも思われたが、50万枚のチケットは発売と同時に飛ぶように売れて完売した。
テレビやラジオ、新聞や雑誌では連日のように特集が組まれ、日本はまさにストーンズ一色になった。
心配された入国審査も無事に通過し、ストーンズは2月14日から27日まで怒涛のステージでファンを沸かせた。
そして、この来日時にはこんな出来事もあった。
ローリング・ストーンズのベーシストだったビル・ワイマンは、1970年代から日本の音楽シーンにも関心を持っていて、3枚目のソロ・アルバム『ビル・ワイマン』のプロモーションで1982年に初来日した際には、人を介して細野晴臣に会ったりしていたという。
だからこの時も当然、細野に会いたいと連絡があった。
そもそも細野に関心を持ったのは、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムからカセットの音源を聴かせてもらったのがきっかけだった。
ビルは最初のソロ・アルバム『モンキー・グリップ』(1974年)で、ニューオーリンズの顔というべきピアニストのドクター・ジョンやスワンプ・ロックで知られるレオン・ラッセルと共演するなど、アメリカの南部に息づくケイジャン音楽に魅せられていた。
細野は1975年の『トロピカル・ダンディー』に始まったトロピカル三部作の時期に、ニューオーリンズからカリブ海へと広がる一帯の音楽を視野において、無国籍風でエキゾチックなサウンドに取り組んでいる。それらはビルにとっても間違いなく、興味深い音楽であったのだろう。
アメリカのミュージシャンたちの中にも、YMO以前から細野の作品に関心を持つ者は多かった。
これは偶然だろうが、3部作の第2弾にあたる1976年の『泰安洋行』のジャケットは、ビルの『モンキー・グリップ』と同じテイストが感じられる。