予兆は、すでに至るところに表れている
高市総裁の誕生は、日本の政治に新たな局面をもたらした。しかし、その船出を前にしても、永田町は静まる気配を見せていない。
立憲民主党が維新や国民民主に接近し、「誰が総理でもいい、とにかく自民党を終わらせる」と呼びかけているという報道が流れた。
そこに国民の姿はない。生活や物価や雇用といった現実よりも、政権交代という言葉の響きが独り歩きしている。政局の連立図だけがメディアに踊り、誰もその中身を問わない。
まるで「政権交代」が目的そのものになっているようだが、政治は手段であって結果ではない。国会召集を前に、すでに権力の座をめぐる駆け引きばかりが先行している。これが、政治の弱体化そのものである。
弱体化とは、指導者の資質ではなく、政治そのものの体力の問題だ。政策を練り上げ、実行し、説明するための基礎代謝が失われている。
与党は派閥の均衡を守ることに疲れ、野党は与党を倒すことだけを目的に動き、その先にある統治の責任を誰も語らない。
官僚は短命政権に怯えて動かず、国民は投票率の低下という沈黙で答えている。こうして政治の血流は細り、意思決定は形ばかりのものになった。
私はこの状態を「見かけ上の安定」と呼んでいる。表面は静かでも、内側では歪みが溜まり続け、いつか一気に崩れる。その予兆が、すでに至るところに表れている。