結婚したら幸福になれるだろうか?
小津自身は生涯独身だった。そして、「活動屋」というやくざな仕事で、気の合う仲間たちと「遊ぶ」ことにひたすら興じた人である。
にもかかわらず、その小津は「結婚」と「家族」を、ほとんどそれだけを描き続けた。 あたかもそこだけが人間的成熟の場であり、すべての人間的経験はそこに凝縮されていると言わんばかりに。
それは小津の映画そのものが機能的には「結婚させる」外圧として(つまり佐分利信的に)機能しているということである。
佐分利信の演じる「結婚させる男」の肖像があれほどたくみに造型されているのは、あるいは彼が「小津映画」そのものを物語的に表象していたからかもしれない。
などということを考える。
小津安二郎のような映画を撮る人はもう日本にも外国にも、どこにもいない。
『すーちゃん』はいわば「佐分利信なき時代」を生きる女性を描いている。
非婚は彼女たちの意思ではない。
佐分利信がいる時代だったら、「すーちゃん」はとっくに結婚していただろう(「もう行かなきゃいけないよ」と耳にタコができるほど言われ続けて、根負けして)。
彼女たちを「非婚に押しやる」外圧が働いているのではない。彼女たちを「結婚に押しやる」外圧が働かなくなったのである。
彼女たちは「結婚したら幸福になれるだろうか?」と考える。
この問いの立て方そのものが間違っているのだが、そのことを誰も教えない。
この問いを許す限り、人を結婚に踏み切らせることはできない(ふつうは結婚しても人はそれだけでは幸福にはなれないからである)。
「結婚したら幸福になるよ」というのは、若者たちを結婚に押しやるための「嘘も方便」である。
そうでもいわないと、なかなか結婚しないからである。
「家族を作れ」というのは要するに「成熟せよ」ということである。
それは「いつまでも、若く、自由で、イノセントでいたい」という若者の願いと必ず葛藤する。
この葛藤を押し切るだけの「成熟圧」を喪ったというのが、おそらくは私たちの時代の非婚の実相なのである。
文/内田樹













