松井の素振りが“4番の音”になるまで見守ったミスター
「一番は感謝だけ。監督の出会いがなければ松井秀喜という野球選手はまったく違う人生を送っていたと思う。2人の時間、また私に授けてくださったたくさんのすべてにありがとうございました、とお伝えさせていただきました」
4日早朝、弔問のため長嶋さんに自宅を訪れ、2時間以上滞在した後の囲み取材でそう語った松井秀喜氏。
この、日本一有名な師弟のふたりがひとつの集大成を迎えたのが2000年といえるだろう。巨人が20世紀最後の日本シリーズを制したこの年の野球界の中心には、指揮官・長嶋茂雄さんと背番号55の「4番・松井秀喜」がいた。
この年の松井は2度目の打撃二冠と、シーズンMVPを獲得。さらに日本シリーズMVPにも輝き、イチローに並ぶ球界の“顔”として不動の地位を築いた。だが、そこに至るまでには、長嶋と二人三脚で歩んだ7年間という長い育成の道のりがあった。すべての始まりは、1993年のドラフトからである。
星稜高校で通算60本塁打を記録し、甲子園で全国的な注目を浴びていた松井。ドラフトでは4球団が競合したが、当時の長嶋監督が見事抽選を引き当てて獲得。
入団早々、長嶋さんは松井に期待し、監督人生をかけた決断をする。それが「4番1000日計画」だった。この“育成プロジェクト”の最大の特徴は、合理性よりも「感覚」を重視すること。
長嶋さんは何度もマンツーマンで松井の素振りを見守った。フォームの形や打球の飛距離よりも、重視したのは「音」だった。トップスピードで振り抜いた際にバットが生む風切り音が、自らの理想とする「4番の音」になるまで、終わりはなかった。
この“感覚で育てる”というスタイルは、一見すると非効率にも思える。しかし、それは長嶋さんなりの「スターの育て方」だった。数字ではなく、人間の持つ華やかさや迫力を重視した育成論は、松井にも着実に浸透していく。