人生で最高に調子に乗っていた…
通っていた公立中学の授業はもはや完全に無駄だった。簡単なワークを終えて余った時間で、隠れて塾のテキストをやった。
同じ塾の特進Aの菅井君などは、なんと授業中に某R高校の赤本を机に丸出しで解きまくり、先生からベランダに呼び出されて激怒されていた。
私はさすがにそこまであからさまにやる度胸がなかったので、「菅井、やるな」と思っていた。
そんなこんなで、私は勉強に明け暮れる中学時代を過ごした。公立中学なので(?)ケンカに明け暮れるヤンキーもいたし、ガチのヤクザの息子もいた。
しかしヤンキーたちですら私を天才と認め、温かく応援してくれた。普通にガリ勉と言われていじめられても良さそうなものだったが、私のガリ勉ぶりとそこから叩き出す偏差値は──自分で言うのもなんだが──町内では常軌を逸しており、ほとんど神の領域に達していた(あくまでも町内では)。
ヤンキーたちもおそらく私のことを、国の未来を担う逸材だと考えてくれていたのだ。
こうして田舎町の公立中学を制圧した私は、東京や大阪や別の塾や私立中学にどれほどの猛者が潜んでいるかも知らず、自分の頭脳を日本有数の宝と思い込み、受験に向けて飽くなき努力を続けた。
この頃、私は人生で最高に調子に乗っていた。もうあれほど調子に乗ることは二度とないだろう。
たとえこれから芥川賞やら直木賞を獲っても、100万部売れても1千万部売れても、メチャカワアイドルから告白されてもノーベル文学賞を獲っても、中三の頃以上に調子に乗ることはありえない。
当時の私を見ていた公立中学の先生たちは、私が決定的に勘違いしていることを見抜いていたと思う。実際、ある先生から「いくらいい高校に行ってもお前みたいな奴はダメだ」と言われたこともあった。
私は、その先生が大した高校を出ていないからやっかんでいるのだろうと本気で思っていた。だが、今考えれば、先生の言葉は正しかったのだ。
もし私が東京に生まれ、もっとすごい人間がたくさんいるということを肌で感じていたら、それほど調子に乗ることもなく、裏を返せば限界を超えるような努力をすることもなく、学歴にこだわることもなかったかもしれない。
少なくとも東大や京大には入っていなかったと思う。その場合、今よりも良い人生になっていたのか悪い人生になっていたのかわからない。わからないが、田舎町に生まれ勘違いして調子に乗ったこの人生を変えることはもうできない。
最終的に、私は某R高校と東大寺学園高校とラ・サール高校に合格し、母を狂喜させ、塾の先生たちを狂喜させ、クラスメイトたちに祝福された。
友人たちは、当時サッカー界で大活躍していた中田英寿を引き合いに出しながら、「佐川君は日本におさまる器じゃない」と言った。「世界のナカータを超えられるのは恭ちゃんしかいない!」
私は度外れたアホだったので、「確かにな」と思っていた。というか、小学校時代にサッカー部を即やめた経験からサッカーが嫌いになっていたので、「中田とか球蹴ってるだけやん」と本気で思っていた。
私の脳内では、セリエAで活躍することより、東大寺に合格することの方がはるかに上だったのだ。
私はそのまま、家から通える某R高校に進学することになる。特進コースだったとはいえ合格した中では当時もっともレベルの低い高校だったので、私はそこで軽くトップを取り、大学は最低でも東大、もしそれが簡単すぎるようなら海外の大学も視野に入れようと思っていた。
そんな調子だったので、私はまさか自分が地獄の高校・浪人生活を経て、命からがら京大文学部に滑り込むことになろうとは、夢にも思っていなかった。
文/佐川恭一