車いすバスケットの授業を行う眞鍋厚毅さん。5か月に渡り練習を続ける
車いすバスケットの授業を行う眞鍋厚毅さん。5か月に渡り練習を続ける
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日本初の車いすバスケのチームは、1967年に設立された「東京スポーツ愛好クラブ」だ。ほぼ同時期に、福岡、千葉、長野にあった脊髄損傷者向けの作業所にもクラブが設立された。日本のパラスポーツは、1964年に開催された東京パラリンピックが転機となったが、競技の普及にはこれらのチームが大きな役割を果たしたと言われている。

北九州障害者スポーツセンター「アレアス」のスタッフとして子どもたちに車いすバスケを教えている眞鍋厚毅さんは、1977年から足立クラブに関わるようになった。

眞鍋厚毅さんは、パラリンピック日本代表女子チームのヘッドコーチの経験も
眞鍋厚毅さんは、パラリンピック日本代表女子チームのヘッドコーチの経験も

「当時は競技用の車いすなんて見かけない時代で、介助者の手押し用の取手がついているもので競技していていることも多かったんです。私が協力するようになったときにはすでに足立クラブは全国有数のクラブで、それもあって北九州市で全国大会が開かれるようになっていました。私はマネジャーとしてスコアブックを付けたり、飲み物を準備したり、そういった選手のサポートをしていました」

眞鍋さんは、学生時代に野球の経験はあったが、バスケットボールはまったくの素人。ましてや車いすバスケは遠い世界のスポーツだ。しかし、足立クラブの選手たちと関わるようになってから車いすバスケにのめり込み、自ら車いすに乗って選手たちと一緒に練習するようになった。眞鍋さんは言う。

「当時は車いすバスケの教科書もなかったですから、いろんな資料を引っ張り出してきて勉強して、練習方法をみんなで工夫して考えて、それを実践してまた反省する。そんなことばかりしてました」

やがて、眞鍋さんは足立クラブのコーチを任されるようになり、1996年には日本代表女子チームのヘッドコーチとしてアトランタパラリンピックに参加するまでになった。車いすバスケといえば、北九州。その歴史をつくってきたのが足立クラブだった。

「車いすバスケの北九州」が世界選手権開催へ

競技関係者が北九州市に一目置いていたところに、思いがけないきっかけで車いすバスケの世界選手権である通称「ゴールドカップ」が開かれることになった。

「もともとは別の県で開催することが決まっていたのですが、同じ年にその県で大きな公式行事が重なってしまって、国際大会の開催が難しいとなったそうです。それで、北九州では国内のブロック選抜大会や台湾や韓国のチームを呼んで大会を開催した実績があったので、北九州で引き受けようとなりました。ほんと、きっかけは偶然でした」(眞鍋さん)

ただ、いざ北九州市で2000年に大会組織委員会を立ち上げると、一つの課題が浮かび上がった。北九州市は過去に車いすバスケの大会を開催してきた実績もあって、運営面では大きな問題はなさそうだったが、「世界選手権を開催したあと、北九州市に何を残すか」が課題として持ち上がったのだ。

子どもたちと車いすの出会い

税金を投じて大会を開催する以上、市民に説明できる大会の「レガシー」を残さなければならない。そのためにどうすればいいのか。そもそも、市民が理解できる「レガシー」を残すには、大会前に市民に車いすバスケを知ってもらわなければならないのではないか。

そこで、大会の認知度を高めるために、足立クラブのメンバーが中心となって、市内の小学校や中学校を訪問することにした。まずは、大会のポスターを掲示してもらって子どもたちに車いすバスケを紹介し、福祉の観点からも大会開催の意義を伝えた。

初めて触れる車いすに、児童たちはみるみるなじんで行く
初めて触れる車いすに、児童たちはみるみるなじんで行く

「そのときに、授業の中で車いすバスケの体験授業をしたら、子どもたちが選手に対して『なんで足がないんですか?』とかどんどん聞いてくるわけです。でも、選手の方も障害を隠すような人はいなかったから、おおっぴらに話す。それでどこに行っても楽しく交流できました」(眞鍋さん)