軽い気持ちで始めたアーチェリー
「高校時代はゲームセンターやカラオケで遊んでばかりだったので、大学では何かやろうかなと思って、たまたま友だちに誘われてアーチェリー部を見に行ったのがきっかけです。美人な先輩に勧誘され、“名前と電話番号と学部を書いて”って。ずっと男子校だったので、そんなこと女性から言われたのが嬉しくて、書いたらそのまま入部になりました(笑)」
初めのうちは好成績を出し、“1年生にうまいやつがいる”と評判にもなったが、以後伸び悩み、平凡な成績のまま大学を卒業したという。
「卒業後は一般企業に就職して、もうアーチェリーはやめて趣味でゴルフを楽しむことにしたんです」
だが会社のアーチェリー同好会から声がかかった。「全日本実業団大会でいつも予選落ちだから力を貸して欲しい、と頼まれて、アーチェリーとは縁が切れませんでした」
発症した下肢の障害が、またアーチェリーを引き寄せた
ところがそれと並行し、下肢に障害が現れ始めた。入社1年目の冬ごろから走りにくさを感じ、最初は運動不足が原因かと思う程度だったが、そのうち走れなくなり、歩けなくなり、松葉づえに。そして6年後には、完全に車いす生活に移行したのだった。
「原因は不明です。先天的なものを持っていて、それがある年齢から発症することは、少なくないらしいんですよ」
上山は落ち着いて話す。
「事故などで突然動けなくなるのでなく、徐々に進行したのがぼくにとってはよかったです。心の準備はできたし、精神的ダメージはなかったですね。障害者手帳も、映画や高速道路通行料が割引になるので、実利をとって、抵抗なくもらいにいきました」
そして、車いすでもできるスポーツ、“アーチェリー”に、再び向き合ってゆく。
「なんかアーチェリーに引き戻されるんですよね」と笑った。
生涯の友となる末武コーチによってレベルアップ!
この“引き戻し”により、今度は真剣にのめりこむことになった。上山は大学4年生のとき、一人の選手と知己を得ていた。現在、パラアーチェリー日本代表チームのコーチである末武寛基氏だ。氏は当時、上山の自宅近くの近畿大学寮生にいたアーチェリー部の1年生だった。のちにロンドン五輪のプレ大会に日本代表として出場するなどしたトップクラスの選手だ。
「卒業後も友だちづき合いが続いていたんですが、アーチェリーを再開してから、ちょっと技術面で相談したら、自宅まで教えに来てくれたんです。“今から行きますわ~”って(笑)。本当にありがたいことでした」
「近畿大にはシドニー五輪で金メダルを獲ったキム・チョンテというコーチがいて、そのハイレベルな教えを受けた末武コーチから、ぼくが教わるわけです。アーチェリーのそもそもからして違っていて、今までの自分は何だったんだという感覚でした。大学で毎日練習していたときよりも、月に何度か末武コーチに教わっていたこの期間の方が点数が上がったくらいです。海外の大会で負けたときも、『末武どうしよう』と。なんでも相談してたら、自然とコーチのようになってくれて、今ではナショナルチームのコーチになってもらっています」
末武コーチとの出会いがなかったら、自分はパラアーチェリーで勝てる選手にはなってない、と振り返る。