アレクサンドル・リトビネンコ氏=サーシャ KGBの元職員、英国に亡命しロシアに対する反体制活動家となったが、2006年英国でロシア政府によって毒殺された

マリーナ・リトビネンコ氏 アレクサンドルの妻 夫がロシア政府に殺されたことを裁判で証明した

私(著者の小倉氏)はマリーナ氏や周辺への取材を通じて、ロシア政府による暗殺の実態を明らかにしていく

世界を変えたスパイ

東西冷戦時代、西側の秘密情報機関にとってKGB(ソ連国家保安委員会)に自分たちのエージェント(諜報員)を潜入させるのは夢のような行為だった。その難しさはこう表現された。

「火星にスパイを常駐させるのと同じくらいあり得ない」

英国のMI6(秘密情報部)は1970年代から80年代にかけ、「火星」にスパイを送り込んだ。KGBの元ロンドン支局長、オレグ・ゴルジエフスキーである。

英国が受け取った機密情報は米国と共有され、西側はソ連に対し優位な外交戦を展開できた。英首相のサッチャーや米大統領のレーガンは、この謎の人物による情報を武器に、ソ連を弱体化させていく。英国のノンフィクション作家でスパイを扱った著作の多いベン・マッキンタイアーはこう書いている。

英国のマーガレット・サッチャー元首相
英国のマーガレット・サッチャー元首相
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〈ごくたまに、スパイが歴史に大きな影響を与えることがある〉

英国によるナチス・ドイツの暗号解読で第2次世界大戦は少なくとも1年早く終わった。1930年代から40年代にかけてソ連のスパイが欧米の情報を入手し、スターリンは決定的に優位に立った。

〈そうした世界を変えた数少ないスパイの中に、オレグ・ゴルジエフスキーはいる〉

この伝説的二重スパイは1985年に英国へ亡命して以降、政府の保護を受けながら暮らしている。アレクサンドル・リトビネンコにとってはKGBの大先輩にあたるとともに、亡命ロシア人仲間でもあった。

リトビネンコは警察に対し、ゴルジエフスキーを「親友」と表現している。マリーナ・リトビネンコも、「世話になった人」としてその名を挙げた。

ゴルジエフスキーに会う際、条件を一つつけられた。住所を明かさないことだった。ロシアに狙われるのを今なお警戒していた。

私(著者の小倉氏)は2014年6月後半、ロンドン・ウォータールー駅から電車でサリー州に向かった。ウクライナ領クリミアをロシアが併合して3カ月が経過していた。伝説のスパイはロンドン郊外の住宅地に暮らしている。高いフェンスに囲まれ、大きな庭には樹木が生い茂っていた。

玄関の呼び鈴を押すと、年配の女性がドアを開け、丁寧な物腰で招き入れてくれた。