テクノ封建制の背景にあるゼロ・イチ思考の危うさ

――いまの世界は「テクノ封建制」に突入している、というバルファキスの現状分析をどのように受け止めていますか?

内田 本当に現実味を帯びてきていると思います。人々が「利潤」を求めて経済活動をするのではなく、「レント(地代・使用料)」を得ようとする。一度農奴身分に落ちた人間には、そこから上に這い上がる回路がほとんどないという社会構造になる。

そうなると、社会的流動性は失われる。中世がそうだったように、長期にわたる停滞期に突入すると思います。

内田樹氏
内田樹氏
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ホイジンガの『中世の秋』やカントロヴィッチの『王の二つの身体』が活写したような、社会そのものは停滞しているのだけれども、人間の生活は過激で、貧困も病気も狂信も飢えや寒さも今では想像できないほど非人間的で、痛みや刑罰や屈辱も、どれも受忍限度を超えるほどすさまじいものだった。たぶん、そういう時代にアメリカはあえて向かっているのだと思います。

そういう意味では「前近代への退行」「中世化」というふうに現在の資本主義社会を形容することは間違っていないと思います。

このまま事態が進行すれば、遠からず一部の富裕層が人類の富のほとんどを独占し、圧倒的多数のクラウド農奴たちがその下で希望なく暮らすという中世的な「静止社会」が生まれることになる。でも、人間って、本来そういう状態には耐えられない生き物であるはずなんです。

人間の本性には「変化を求める欲望」や「自由を求める欲望」が標準装備されている。だから、テクノ封建制は資本主義そのものの形態変化の必然性がもたらすものではありますけれども、別に人間の本性的な欲求に応じて出現したものではない。なので、いずれ経済システムと人間の本性の間にはげしいフリクション(摩擦)が起きることは避けられない。

人間って自由を求める生き物なんですよ。もっと自由に動けるようになりたい、可能性を追求したい、連続的に自己刷新を遂げたいとと思っている。それが生物としての人間の本質なんです。停滞に耐えられない。

だからこそ、いま進行しつつある「テクノ封建制」に向かう流れに対しては、はっきりと「それは嫌だ」と言わなければならない。「そういう社会は、人間にとって不幸な社会なんだ」ということを、はっきり指摘する必要がある。

でも困ったことに、この仕組みに向かって突き進んでいるテック・ジャイアントの人たちというのは、二極化が大好きなんですよね。勝者と敗者、超富裕層と貧困層、善と悪、領主と農奴……。とにかく、世界をきれいに二分割してしまいたい人たちなんです。

本来、人間社会にはもっとグラデーションがある。曖昧さや中間領域があって初めて人間社会は成立している。でも、彼らはそういうアナログな連続体としての社会が嫌いなんです。アナログ的な多様性や曖昧さに対して、本能的な嫌悪感を持っているように見えます。

テック・ジャイアントの思考って、徹底的にデジタルなんです。だから、彼らが一番嫌うのが「程度の差」という概念なんですよ。「これはこっちにちょっと近いけど、あっちにも少し含まれている」とか、「白黒はっきりしないグレーな存在」とか、そういうのがもう我慢ならない。

加速主義者たちが好んで使う比喩にもこのことがよく表れています。それは映画『マトリックス』で、モーフィアスが主人公のネオに差し出す、赤いピルと青いピル(レッドピル/ブルーピル)の喩えです。「青いピルを飲めば幻想の中で眠り続けられるが、赤いピルを飲めば痛ましい現実に目覚める」というあれです。

写真/Shutterstock
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加速主義者たちはこのメタファーが大好きなんですよね。「あなたはレッドピルかブルーピルか、どちらを選ぶのか?」と読者に迫って来る。「目覚めるか、眠り続けるか、二者択一だ」と。そんなわけないじゃないですか。薬一粒飲んだら真実が眼前に展開するなんておいしい話、あるわけないでしょう。

世界がどういう成り立ちであるのか知るためには、長い時間かけて、身銭を切って学習する以外に手立てはないんです。「この薬一粒飲めば世界の真実がわかる」という言い方をするのは「教祖」と「詐欺師」だけです。