人が人でなくなっていく

しかし、問題を起こした子どもに対して、教員がその子の成長を見据えて粘り強く指導するのではなく、言うことを聞かない場合は警察の力も借りて機械的に学校から排除していくそのシステムは、あまりにも冷たい。

本来、生徒指導こそが教育者としての専門性が生かされる領域だろう。日々ともに過ごす生徒のニーズを最もよく知る現場教員ならではの、それぞれの状況に応じた判断があるはずだ。

ゼロトレランスでのマニュアル化や、警察へのアウトソーシングは、教員が自分の専門性を放棄することを意味するのではないだろうか。

塵一つないほどまでにクリーンアップされた学校。その実態を知ることはあなたたち大人には絶対に不可能です。

そう實川さんは断言する。何を言ってもどうせ変わらない、と思っている生徒は、一見「平和」で、きれいな学校の裏側を、自分たちを守ってもくれない大人に伝えるはずがないのだ。

こうして子どもたちは、大人に幻滅し、理不尽で、不公平で、正義が通らない「社会に絶望」する中で、保身のための無関心、そして思考停止状態に追いやられていく。

もはや人としての成長を促すという意味での「教育」が成り立っていない實川さんの学校の話を読んでも、私は別に驚かない。どこでも起こり得る話なのではないだろうか。

中学校の教員である私の恩師は、實川さんのエッセイを読み、こう言った。

「『現場から心がなくなっていく』を通り越して、人が人でなくなっていく」

その言葉は「世界最大の悪は、ごく平凡な人間、つまり人であることを拒絶したものが行う悪である」というハンナ・アーレントの言葉を彷彿させる。

ナチス占領下のドイツでユダヤ人の大量虐殺という前代未聞の大罪が起こった理由を追及したアーレントは、「悪の凡庸さ」という結論にたどり着いた。

悪とは、普通の人間には理解不能な異質な存在などではなく、実はもっと身近なもの。ごく普通の人々が集団的に思考停止状態に陥った時、そこに悪が繁殖し得るモラルの空白が生まれるのだ。

問題は複雑で、体罰をなくしたら学校が平和になると思ったら大間違いと指摘する實川さん。

画像はイメージです
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その通りだ。しかし、だからといって、体罰を復活させたら学校が平和になるかといえば、それもまた違う。本当は、体罰などよりもっときついものがある。それは、自分が心から「先生」と思える人との信頼関係を失うことだ。