反省する機会も得ずに卒業していった加害者たち

記事で報じられたいじめの凄惨さもさることながら、私にとって最も印象的だったのは、反省すらできないいじめ加害者生徒らの姿だった。取材班は、保護者の許可を取った上で主犯格とされる生徒(取材時にはすでに中学校を卒業していた)らにインタビューしている。

被害者生徒の死を受けてどう思ったか、という質問へのA子の答えは記者を驚かせた。

「うーん、いや、正直何も思ってなかった」

一方、被害者生徒に公園で自慰行為を強要したB男は、その行為をいじめと認識しているかとの問いに、たった一言こう答えている。

「悪ふざけ」

学校の対応はどうだったのだろうか。B男は学校に5回ほど呼び出されたそうだが、「怒られるというよりは『何があったのかちゃんと話して』という感じだった」と言っている。

被害者の女子生徒は、ゴールデンウィーク中、深夜にB男に呼び出されて怖かったことを担任の先生に相談しようとしたが、「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか?」とあしらわれた。

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また、被害者女子生徒の母親からいじめの調査を求められた学校側は、「わいせつ画像の拡散は、校内で起きたことではないので学校としては責任は負えない」と答えている。

そんな学校の対応について、「冷たい」と感じたり、「なんだそれは!?」と憤りを感じる読者は少なくないかもしれない。当然だと思う。しかし皮肉にも、政府が進める「働き方改革」のもとで評価するならば「100点満点」なのだ。

勤務時間外には教員は職員室への電話にも応えなくてよいし、勤務時間終了とともに留守番電話に切り替えられる学校がほとんどだ。

もちろん、週末に生徒から携帯に電話がかかってきても教員には対応する義務がないどころか、教員が生徒に自分の携帯番号を教えることを許している学校の方が珍しい。

画像の拡散だって、教頭の言う通り、学校外で起きたことなのだから本来学校に責任はない。ただ、本当にそれでよいのだろうか。

一つ強調したいのは、この学校では、自分のせいで14歳の少女が亡くなったかもしれないのに何にも感じない子、少女が死にたいと思ったほどの心の痛みもわからない、想像力の乏しい子どもたちが、反省する機会も得ずに卒業していったということだ。

新自由主義支配の下で教員は、「お客様を教育しなくてはならない」というジレンマを抱え、冒頭の實川さんの言葉を借りれば「抑止力」を失い、教育現場は「多種多様な悪行」がまかり通る「無法地帯」と化す。

そんな中、学校は失われた自らの威厳をどう補うのだろうか。その一つの答えが、「ゼロトレランス」による生徒指導のマニュアル化と警察への外部委託なのだろう。