消えていった職人

「法隆寺最後の宮大工棟梁」と呼ばれた故・西岡常一が住んでいた奈良県斑鳩町(いかるがちょう)の西里(現・法隆寺西1丁目)は、法隆寺に仕える職人たちの村だった。

彼らの生活は保障され、彼らは法隆寺を守っていた。日頃から法隆寺を見て回り、どこか悪いところがあれば自ら直す。それが法隆寺に仕えるということだった。仕事がない時には農業をしつつ、常に寺のこと、先のことを考え、良い木があれば何年も乾燥させて次の修理に備えていた。

昔、宮大工の棟梁は、木を買わずに山を買っていたと西岡は言う。自ら山を歩いて見て回り、一本一本が育っている環境をじっくり見るためだ。

「先生は私の知らない私を教えてくれる」一人ひとり違う子どもの癖を見抜き、無限の可能性を引き出せる…令和に求められる理想の先生像とは_1
すべての画像を見る

陽の当たり方、水源、風向きなど、異なる環境で生き抜くために、木々は独自の癖を身につける。だから癖は生命力の表れであり、使い方次第ではとてつもない強さを発揮することを、昔の宮大工棟梁は知っていた。逆に、癖のない素直な木は弱く、耐用年数が短いことも。

そうして昔の宮大工棟梁たちは熟練のまなざしで木々の癖を見抜き、それに合わせた使い方をしたり、組み合わせたりすることで「木を生かす技」を受け継いできたのだ。

そんな彼らの生活は明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく 寺院や仏像、経典などが破壊され、仏教的要素が排除された)で一変、食べていくことすらできなくなった*1

その後、急速に分業が進み、設計、積算、材木の調達、組み立てなど、最初から最後まで職人が担っていた建築の工程は分業され、単純労働化と機械化が進むことで大量生産が可能になった。

時間をかけて本当に良いものを一つ作るのではなく、長持ちはしないが安いものを速く大量に生産する資本主義の時代が来たのだ。職人は生きる場所を失い、やがて消えていった。