アイドルに限界を感じてミュージカルの道へ

川﨑といえば、元妻であるカイヤの尻に敷かれる恐妻家や、その後のドロ沼離婚協議のイメージが強いが、もともとはジャニーズ事務所所属の正統派アイドル。

中学1年で素人参加型番組の出演をきっかけに故ジャニー喜多川氏の目に留まり、中学3年で歌手&俳優デビュー。

人気音楽歌番組「レッツゴーヤング」の出演で知名度を上げると、その翌年、当時の人気の指標となっていたブロマイドが爆発的な売上を記録し、またたく間に人気アイドルの仲間入りを果たした。

1978年4月23日発売号の「週刊明星」では、そんな新星を同時期にブレイクした大場久美子とともにこう評している。

いまヤングの間で最も人気のあるのがこの2人、大場久美子と川崎(※出典ママ)麻世。ひろみ、五郎、秀樹の新御三家や百恵、淳子らを追い抜いてブロマイド売り上げ第1位を独走しているのだ。

ブロマイド売上がトップとなり、全国区となった川﨑麻世(「週刊明星」1978年4月23日発売号より 撮影/今津勝幸)
ブロマイド売上がトップとなり、全国区となった川﨑麻世(「週刊明星」1978年4月23日発売号より 撮影/今津勝幸)
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しかし、次々とスター候補が現れるのが芸能界。大学を進学する頃の自身の立場について、川﨑は後年(「週刊明星」1988年6月16日発売号)のインタビューで、このように語っている。

「田原(俊彦)、近藤(真彦)が出てきたでしょ。僕が歌ってる時に後ろでね、踊ってた人たちですよね。それがバーッと売れて、もう、彼らの時代がきたんだと思いました。悔しかったり、うらやましかったりしたけど、いつまでも(アイドルに)ぶらさがっているよりも、何か別のことにチャレンジしなきゃって気持ちになりましたね」

 そうして役者、とくにミュージカル俳優として力をつけるため、20代に入って本場ニューヨークに修行へ。ロンドン発のミュージカル『スターライトエクスプレス』の日本、オーストラリアツアーに日本人でただひとり抜擢されるなど、アイドルの次のステージへ進むことに成功する。