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中森明菜は「十年遅れの山口百恵の物語」だ

73年と82年というほぼ十年遅れのデビュー、横須賀と清瀬という東京近郊都市出身、母子家庭と今どき子だくさん家庭という特異な出自、『スター誕生!』でデビューし新人賞は逸するが、デビュー数曲後、ツッパリ少女風の危うさが印象的な歌でチャート一位のヒットを飛ばす(百恵『ひと夏の経験』、明菜『少女A』)、そして映画での共演相手である男性とのロマンス……。さらに件の相手と70年代末に百恵が結婚・引退を決意したように、80年代末に明菜もまた結ばれることができたなら、ほぼ完璧な形で「十年後の山口百恵の物語」は完結するはずだったのだろう。
(中森明夫『アイドルにっぽん』新潮社、2007年)

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中森明菜のデビュー曲「スローモーション」
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中森明菜はデビュー当時から「尊敬する人」として山口百恵の名前を挙げていた。それは信仰にも近かったように思う。百恵と同じく中学生にして『スター誕生!』に挑戦し、二度も落選している。

それでも諦めなかった。三度目の挑戦で同番組史上最高点(392点)を得て合格、デビューを果たす。その時、唄った山口百恵の歌は、あまりにも象徴的だった。そう、明菜にとって百恵は「夢先案内人」だったのである!

80年代半ば、中森明菜はトップアイドルとなってベストテン番組で松田聖子と順位を競った。聖子が結婚・出産で芸能活動を休止すると、ついに彼女はアイドルの頂点に立つ。そう、1980年代後半、昭和末の世にたしかに〈中森明菜の時代〉が存在したのだ。

しかし……。
89年7月、恋人・近藤真彦の住むマンションで自殺を図る。一命は取りとめたが、トップアイドルのこの事件は大騒動となった。明菜のキャリアは中断する。この件を私は以下のように捉えた。

デビュー当時から「尊敬する人」として百恵を信仰してきた明菜にとって、無意識のうちに自ら反復した「百恵の物語」が破綻しようとした時、自死をさえ決意させるほどに彼女のうちでその物語の呪縛は強固だったはずだ。(同前)