ミュージシャン組合からの除名勧告

クイーンによる南アフリカ公演は10月5日から始まった。ところが、ツアーはとても大成功とはいえなかった。

というのも、初日が始まって15分ほどが過ぎたところで、フレディ・マーキュリーが喉の炎症で歌えなくなってしまい、12公演のうち5公演が中止となってしまったのだ。

思いもかけず、時間の空いてしまったクイーンのメンバーたちは、その時間をサンシティという街やアパルトヘイトの現状を知ることに費やした。

ブライアンの場合は、ソウェトで開催されるブラック・アフリカン賞の授賞式で、プレゼンター役の依頼を引き受けることになった。

ブライアン・メイ、写真は2014年頃のもの
ブライアン・メイ、写真は2014年頃のもの

サンシティ側は「街の外に出れば身の安全は保証できない」と忠告したが、ブライアンは喜んで授賞式へと向かった。会場でブライアンを待っていたのは、現地の黒人ミュージシャンらによる温かい歓迎だった。

「あの夜のことは絶対に忘れられない。だから僕はその時、いつの日かクイーンが、ソウェトの町にコンサートで戻って来る約束をしたんだ」

ブライアンが授賞式に出たほか、目や耳の不自由な子供たちの通う学校が資金難であることを知ると、メンバーは南アフリカ限定のライヴ・アルバムをリリースし、その売上を学校に寄付することを決めるなど、クイーンはいくつかのアクションを起こした。

ところが、南アフリカでの公演が終わって、イギリスへと帰国した彼らを待っていたのは、ミュージシャン組合からの除名勧告だった。

会合に足を運んだブライアンは、自分たちの行動について弁明する。

「僕が委員会のメンバーに訴えたのは、反アパルトヘイトを声高に唱えて彼らを遠ざけることより、僕らが現地でやったことのほうがずっと効果的だったということだ」

地元の新聞に「アパルトヘイトをなくすべきだ」という、自分たちの発言が掲載されたこと、地元のミュージシャンたちに感謝されたことなどを伝えると、組合はようやく彼らの行動に理解を示した。違約金こそ発生したものの、組合からの除名は免れた。

しかし、南アフリカで公演したことによって、国連はクイーンをブラックリストに加え、世間からの批判もさらに苛烈なものとなる。

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反アパルトヘイト団体からの抗議デモ、そしてレコードセールスの低下、さらには巷で流れるバンド解散の噂……この時期のクイーンはさまざまな問題を抱えていたが、翌1985年に彼らはそれら全てを解決してみせた。

それが、20世紀最大のチャリティー・イベント、ライヴ・エイドへの出演だったのだ。

文/TAP the POP 写真/Shutterstock

【参考文献】
「クイーン 果てしなき伝説」ジャッキー・ガン&ジム・ジェンキンズ 著/東郷かおる子 訳(扶桑社)
「クイーン 華麗なる世界」フィル・サトクリフ 著/川村まゆみ 佐々木千恵 訳(シンコーミュージック・エンタテイメント)