プロ野球選手は球団オーナーのアクセサリーではない
中日時代の田尾は選手会長として球団に環境改善の要求を出し続けていたが、それを当時の鈴木恕夫代表に疎まれて、放出されてしまった。
一方的にトレードの通達をされたのが、キャンプイン直前ということで練習不足は否めず、田尾の西武初年度の成績は、前年度を大幅に下回るものであった。
しかし、契約更改の席上で坂井は「夏休みにうちが大差で負けた試合があったが、君が打ったホームランで1点返すことができた。あれは球場に来てくれた子どもたちにとって忘れらないホームランになったはずだ」と田尾に告げたという。
まず選手のプレーを尊重した上で、「ただ数字は落ちているので年俸を下げていいか?」と問うた。田尾に異論は無く、その振る舞いにすっかり感じ入ったという。坂井はそんな球団経営者だった。
「そうだね。よく試合は観に行っていましたからね。今、記憶がよみがえって来たけれど、選手会労組結成の動きは傍から見ても手ごたえがあった。僕はね、この流れを見て見ぬふりをするわけにはいけないと思った。野球界における自分の役割はここにあるのだとさえ考えた。ここから先、話すことは物語として聞いてくれるといいんだが…」
経営者側にいながら、選手に向けての助言をなぜ発していたのか。坂井の半生をなぞることで、理解できた。坂井は戦後の日本のプロ野球球団の盛衰を身をもって体験してきたのである。
そのはじまりは大映(大日本映画製作)の永田雅一会長が自らオーナーを務める東京オリオンズをロッテに譲渡したことがきっかけだった。政界のフィクサーとしても活動をしていた永田は、新体制となったロッテオリオンズに盟友であった岸信介元総理の筆頭秘書の中村長芳を代理オーナーとして送り込んだ。
山口県出身の父親との関係で中村(旧制山口中学卒)に師事していた坂井もそれに伴ってロッテのフロントに入ったのである。坂井のプロ球団との関りがここからスタートする。
坂井はこの頃のプロ野球選手が球団オーナーのアクセサリーのように扱われていたことを著書にこう記している。
「プロスポーツ組織としてはまだ未成熟な存在。永田オーナーも、大映の女優陣を酒の席に侍らせてご満悦だったのと同じ程度に、プロ野球選手を引き連れて飲み歩く豪勢さをむしろ愛していた」(「プロ野球血風録」より)
チームを愛し、オリオンズのために自費で東京スタジアムを建設して、名声を得た永田オーナーでさえ、球団経営にかける情熱は公的な意識からではなくタニマチ気質から起因していた。
坂井が選手はオーナーたちの私物ではいけないという思いを強くし、2004年に渡邉恒雄巨人軍オーナーが口にした「たかが選手」という発言を厳しく糾弾するに至るようになったのは、これらの体験に起因していると思われる。